見出し画像

「大文字の他者」という怪物との闘争

テクスト a

 テクスト a に記される「怪物」の正体は,かつてラカンが大文字の他者(Grand Autre)と呼んだものと重なろう。

 本項では,いわゆる「言語化」が成される以前の「心の内」と呼ばれるものにも言語と呼びうる構造を認める。さらに,この「心の内」をいわゆる私的言語と同視せず,まさしく彼が利する(すなわち,使用にまつわる価値によって在らしめられる)一つの言語であると見る。

 さて,そうすると,テクスト a が暗示する心情は象徴界に参画することによって「心の内」が轢死すること,否むしろ象徴界そのものが持つ威光によって「心の内」が圧死することへの不安であると読める。

 むろん象徴界の表現能力には(少なくとも任意の時点において──共時的な意味において)限度があろう。この限度じたいはしばしばそのコミュニティの言語活動の機動力に寄与することもあろうし結構であるが,問題は「心の内」によっては表現可能なことが,象徴界の表現能力においては不足しうるという事情である。

 さらに,「心の内」が大文字の他者に誤訳されたことに当人が気付かず,ともすると〝しっくり〟さえ感じてしまうということがありえて,こちらの事情にはもっと恐怖と哀愁を感じるのである。斯くいう私も,多くの「心の内」にあった言葉たちを大文字の他者を利して殺戮した(今もしている)のかも知れぬ。

 ところで,斯様な殺戮の防除策としてじゅうぶんなものを私がここで示すことは難しいが,少なくとも言語分析が(諸刃の剣であれ)一つの策であるとは言えよう。というのも,言語分析は,喩えるなら「心の内」や大文字の他者に対する開腹手術(謂わば開心手術)のようであり,まさに「心の内」の構造を凝視・傾聴して,この構造じたいを精緻化したり,これと比して不合理な大文字の他者の構造を剔抉さえしうる営みであるからだ。

 然して,言語分析(開腹手術)を契機として,大文字の他者に内在する毒に「心の内」が汚染されうることの危険性もすぐに指摘しておかねばなるまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?