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ロマンスに利用される性交

 情事において,いわゆる本番行為(以下,本番と略記)そのものよりも本番に至るまでの一連の文脈と事後の諸言及の方がえっちだという事情は認められるが,然るにこの「えっち」さは本番なくしてありえなかったはずである。

 この本番という語を,それ自体には威力 X がないのに、それなくして X を在らしめられぬような存在にメタフォライズしてもよかろう。

 本番を,単なる物理的な刺激──ピストン運動として捉えるのではなく,もっと一つのシニフィアンとして注視することでこの威力が見えてくるはずである。

 本番のために費やされた時間,労力と,本番によって変えられた彼との関係性を愉しむことこそ,こんにち遊戯化された性交の醍醐味であると言ってよかろう。

 さて,性交の遊戯化は,けだし「本番」を一つのロマンスの中に附置させることによって成されよう。*

 して,上掲したようなロマンスの実現のために生ずる性欲を人間的性欲,純然たる性欲を動物的性欲と呼び分けることにすると,素朴には人間的性欲と動物的性欲による性交は軋轢を生むようにも推せるが,さほど単純な話ではないとおもう。人間的性欲の中には,もっぱら動物的性欲によって犯される自分旨のロマンスが志向されるものがありうるからである。この場合,とうぜん両者の欲望は新和的な関係にあるはずである。

 むしろ軋轢の種となるのは,互いに矛盾したロマンスの実現を希う人間的性欲同士による性交であろう。

 例えば,
A 氏:B 氏にサディスティックに扱われる A氏B 氏:A 氏にサディスティックに扱われる B氏
(X 氏:〈X 氏が性交によって求めるロマンスの内容〉)
という,互いに矛盾したロマンスの実現を希う A 氏と B 氏は,「えっちをしよう」という段階までは互いに快諾できえても,性交をした暁には(相手方に嵌合するような性癖が開拓されないかぎりにおいては)これが軋轢の種になろう。

 この軋轢の回避を我々に難しくさせているのが,我々が性交によって求めるロマンスは,しばしばそれを求めている旨を相手に明言した瞬間に失敗する構造をもっているという事情だ。

 例えば,「私は被支配を感ずる性交がしたい」と,A 氏が B 氏に頼んだ瞬間に,B 氏がこれに努めたとしても(寧ろ,まさにこのことによって!)頼まれたからやっているというような構造が彼らの内心に編まれてしまい,A 氏が B 氏からの支配を実感するのにあたって無視できない障害となる。

 ところで,かつてソクラテスが被った排斥運動は,デリダの慧眼によってパルマコンの運動を剔抉されたが,本項の本番とこれが同義というわけではない。たとい本番がパルマコンの運動を包摂しても,この逆は認められない。

* 俗に「交尾」と表されるジャンルは,寧ろロマンスを排することのえっちさを感ぜしむるから,素朴にはこの反例に見える人があるかもしれないが,このえっちさも,実は社会的体裁を忘れて性交に耽る旨のロマンスによって在らしめられていると穏当に考えられるはずである。

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