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人を頼ることが苦手。その課題と改善方法。(1)頼ることは相手の生きる喜びを満たすこと。

ここ数年、自分は人に助けてもらうことが本当に下手だ、という課題に気づき、改善すべく取り組んでいます。

人に助けてもらうという選択をしないせいで、

①辛い状況を我慢し、限界ギリギリまで頑張った挙句、突然はちきれてうつ状態に陥ってしまう。

②自分の本当の要望を伝えないままただ我慢して、最終的に会社や所属先を去る。

③自分のやりたい活動も、思うように広がらない。

という、自分の思考から起因する問題と、

④自分が人に助けてもらうという選択をしないため、安易に人に頼る人に対して怒りが湧きやすい。

➄さらに、人に頼ることが上手い人が、どこまで、どんなふうに頼んでくるかということに思い至らないため、想像以上に仕事を抱え込んだり、断るタイミングを逃し甘えられ続け、自分の首を絞めることになる。

など、他者の思考が読めないことから起こる問題まで影響が幅広いと気づき、これは改善しなければと思うようになりました。

助けてもらうための相談がまず苦手で、なぜなのかと掘り下げてみると。

①“これは自分で解決すべきもの”“自分で全部やらなければならない”という意識が強く、人を頼る、助けてもらうという選択肢を思いつかない。

②傷つきやすいため、過去に人から受けた厳しい反応を思い出し、溜め込んでしまう。

③負けず嫌い、またその場の空気が悪くなるのを恐れて、特にネガティブなことについて自己開示が苦手。

といった原因が思い当たりました。

いろいろな本を読み、自己観察・分析し、また信頼できる人の話も聞いたりして、徐々に改善しているのですが、この間久しぶりにある映画を見ていて、これまでバラバラに存在していた点が線に繋がった感覚がありました。

自分にとっては、一番の指針となるかもしれないと感じたその気づきは、“助けてもらうことは、相手の生きる喜びを満たすことでもある”ということです。

この考え方については本で読んだことがあり、頭ではああそうだよね、と思っていました。でも実際に腑に落ちていなかったため、この事実は体内に浸透しておらず、人を頼る動機として弱いなとどこかで感じていました。

この映画を見て思い出しハッとしたのは、随分前に婦人科のクリニックでお世話になった時のことです。

子宮がん検診の、精密検査でのことでした。検査中に血圧が急激に下がり、私は診察台の上で失神してしまいました。

薄れいく意識の中、診察台から担ぎ上げられどこかのベッド上へ。お医者さんと看護師さん達がバタバタと走り回る音が聞こえましたが次第に遠のいていき、気づいた時には皆さんが心配そうに顔を覗き込んでいました。

空気の乱れが伝わってきたので、突発的な症状に大慌てで、大勢の人が入れ替わり立ち替わりし、バイタルサインのモニターなども運び込んで、私の状態を確認されたんだなと感じました。

痙攣もしていたそうですが、意識が戻った後も朦朧として冷や汗でびっしょりでした。

その後、腹痛に耐える私を、看護師さんは何度も確認に来てくださいました。常に非常に混んでいる病院で、外来を回しながら私の面倒を診るのは大変だろうなぁと思いました。

ベッドから落ちないように移動させ、痛みが引いていかないのを感じ取って先生に相談し、体内に残っていたガーゼを除去してくださるなど対処してくださいました。

痛みが楽な姿勢にし、さすったりパッドで温めてくださったり。低い声で唸る私の傍で彼女の緊張が伝わってきましたが、落ち着いた声で冷静に状況を確認しつつ共感が伝わる態度で接してくださることで、私は乱れる心を抑え、次の確認まで1人で耐えることができました。

人が苦しむ姿を見ることでかかるストレスはどれだけ大きいだろう、と痛みと不快感に翻弄されながら思い、彼女の献身的な仕事ぶりに本当に感謝しました。

当時は、あの時の看護師さんの思慮深さやプロ意識、共感力にひたすら感謝していたのですが、この映画を見ながらその状況を思い出した時、新たに違う感想が思い浮かびました。

私が、「少し楽になりました……。温めるだけでこんなに変わるんですね。ありがとうございます……」と、涙目で力ない声で感謝を伝えた時、「良かった。血流が良くなるだけで随分違うんですよ」と彼女がホッとしつつ、とても満たされた表情をしていたのが印象的だったなと思い出したのです。

その時に、ああこういうことか、と驚きました。人の役に立ちたいという気持ちは、根源的な欲求。自分の強みを生かしてであれば尚更、達成感や自己効力感を強く感じる。人に助けてもらうことは、相手の生きる喜びを満たすことでもあるんだ。

共感力が高いから相手の気持ちを楽にすることができる。プロだから痛みを取ったり安心させたりできる。自分の強みを生かして相手を喜ばせることができる。

考えてみれば、自分が与えている場合も同じ。これで満たされる欲求は、生きる喜び・原動力となるほど大きなものなんだ。

私は、人の役に立ちたいという気持ちが強いので、これまで自分が人を助けた時の感覚しか味わってこなかったことに気づきました。

その喜びが動機づけとなって次の行動に繋がっていくのですが、常に同じ方向からしか見てこなかった。

誰かを助けその相手が喜んでくれた時、あぁ良かった、役に立てた、嬉しい!という喜びは、普遍的なものなのだから、逆も然りなんですよね。

この見方に気づき、自分が人に助けてもらった時、相手が自分を助けることで満たされたんだという事実も同時に味わうことが、自分のこの課題に対する第一歩かもな、と思うようになりました。

頑張り過ぎる人ほど、人の役に立ちたいと思う人ほど、人に助けてもらうことを学ぶ必要があるかもしれない。

まずは、どんな小さなことでも誰かに助けてもらった時、感謝を表しつつ、相手の喜びもしっかり受け取るようにする。

助けてもらって申し訳ないと恐縮ばかりしないで、相手の生きる喜びを満たせたということも感じ切っていく。

そうすることで、自分は完璧な人間ではないことを改めて知り謙虚になれたり、自分の欠けた部分を人に補ってもらうことも喜びだと思えるようになるんじゃないか。

年を取るにつれ、人に助けてもらうことも増えます。その時、いかに相手に気持ち良く助けてもらえる人間になれるか。自分が与えるのではなく受け取り、与える側の相手の喜びをいかに大きくできるか。

この壮大な課題に取り組みつつ、好々爺ならぬ好々婆(そんな言葉は存在しないようですが)を目指して、精進したいと思っています。

以下、ご紹介です。

①見方が変わるきっかけとなった本です。40代後半になり、親の介護、自分の老いについて考えるようになりました。どう生きるべきかという問いに対して、モリー先生自身が体現しながら答えた物語です。

②この映画で、与える側の喜びを見た時、上記本の内容がより深まって体に浸透してきました。また、この人のために協力したい!と皆に思わせる人には一体何があるんだろう、と考えさせられました。(大泉洋さん主演)

こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話

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