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おとなの通信簿1
前書き
わたしはこれまで、プロダクトデザイナーにどうしてなろうと思ったか、どうやってなれたかについてほとんど書いてきまんでした。とりたてて理由はありませんが、今なら物語として書けそうに思えたのです。
進路
デザイナーになっている人を一般から見れば「子供の頃から絵が得意で上手い」と思われているような気がしましが、わたしの場合は少し違っています。
美術の成績はさして良くないし、コンクールで入選した記憶も小学一年の夏休みに描いた「大阪城」の絵が大阪市のコンクールで佳作に入った一回きりです。
美術の時間を殊更楽しみしてはいませんでしたし、休み時間に部屋に残ってお絵描ききをしていた事もありません。そう言いながら中学では美術部に入っていましたのですが。
成績全般も良くも悪くもないわたしですが、高校を選ぶ段になって担任の先生と「進学先の見解が食い違った」のです。本人はちょっと頑張れば受かりというかそこを受けられてもさしてすごくもないと思っていた普通科の高校にも「受からない」という事になったわけです。
しかし模擬試験も受けていなかったので、先生の見解を押し返すだけの今風に言えば「エビデンス」が無かったし、滑り止めの私立校も考えていなかったので、先生の言うレベルを落とす高校しか選択肢が無かったのです。
面白いのは、なにを思ったか(どこで調べて来たかについてまったく記憶にないのですが)ある工業高校に「工業デザイン科」というものがあって、その「不確定さ」に賭けてみようと思ってそこに進みたいと自ら申し出ました。
今でも、その判断(決断)は「人生最大のファインプレイ」だったなあと思っています。
高校時代
50年前の工業高校は、成績が良くても家庭の事情で高校を出て就職をする人の有力な選択肢でしたし、その工業高校からは、現役ではさすがに無理ですが一年に一人二人は京都大学や大阪大学に受かる人もいたと言えばレベルが掴めるかと思います。
ようは自分次第だなと思っていたわけで、親からも高校を出たら働いてくれと言われてもいませんでし、本人としては進学の道も選べると思ったのです。実際そうなったわけですが。
面白いのはファインプレイと言いながら、その高校時代をほとんど楽しんではいませんでした。なぜなら、入学式の日に教室で配られた教科書でした。なぜかといえば数学も英語も国語も厚みが「薄かった」からです。それを補っていたのは「工芸史」や「木工」の本でした。
「工業デザイン科」と言いながらも、その内実は戦後すぐに作られた「木材工芸科」を改名したもので、その「余韻」が色濃く残っていたのです。
『あれれ。』という感じでした。ふつうに数学や英語を学びつつ「専門課程」も習えると勝手に思い込んでいたのですが、一般教科を学習する時間を削って専門の時間にあてるという「当たり前の事実」を目の当たりにして初日から将来についての夢が「挫折」をしたわけです。
わたしは諦めが早くもありその一方で「手立て」を考える人だったので、そこで良い成績ではなく、進級に最低限必要な「60点」を取っておいて、その時間を進学のための勉強に使うように考えたのです。
そんな私の邪心(?)を先生も見逃すわけもないし、同級生には工業デザインという新しい事に可能性を見出して普通科に進まなかった優秀な同級生も沢山いたので、あっという間に「下から数えたほうが早い」という成績になっていました。親もわたしもその通知表を見て「呆れた」のを覚えています。
しかしその成績が芳しくなかったおかげで、求人に来ていた大阪の有名な企業に推薦してもらえない事で、より進学する事が明確になった事も「良かった」と思っています。
転機
ここからがまた面白いのですが、現役時代に受験したのが愛知県立芸術大学の「油絵科」でした。
学校に気合が入らない一方で、高校時代にハマっていたのが、美術手帖や芸術新潮に載っていた「現代美術」でした。中学の時と高校で行った倉敷にある大原美術館で観た国内外の現在美術に大きく感化されました。
たぶん芸大の油絵科に受かったとしてもアカデミックな油絵は絵は描かなかったろうと「そうならなかった将来」を思います。
しかし「ほんとうにそうなりたいか」という事が明確でなかったわたしは半ば諦めながら受験をしたら、あっさり一次試験の石膏デッサンで落ちてしまいました。他の美大も受けていませんでした。
しかしこの事も今にして思えば「二つ目の大きなファインプレイ」でした。
つまり「ファインプレイはミスから生まれる」わけです。
そこで「一転(二転)」してプロダクトデザインを目指すべくために浪人時代の一年間美術予備校に通い始めたわけです。
今回はここまで。
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