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SNS疲れの社会病理 なぜ疲れ、どう解消するか

 唐突だが、私はSNSのアプリを全てアンインストールしたことがある。その頃はやることなすこと全てが上手くいかず、なんだか何もかもが煩わしくなって断ち切りたくなり、極端な行動に走ってしまった。

 結局アプリを削除しても私の心が晴れやかになる訳ではなかったが、紆余曲折を経て心の調子も回復した後は、やはりコミュニケーションツールとしてや情報収集ツールとしての便利さを感じて再びインストールした次第である。今では、ある程度適切な距離を保ちながらSNSを利用することで、新しい人や情報との出会いを楽しんでいる。

 ふと考えた。「どうして僕たちはこんなにも神経をすり減らしながらSNSをやっているのだろうか」と。ネットニュース等を見ていても、SNSをやることに辛さを感じている人は多いらしい。ネット上での誹謗中傷が原因で起きる悲しい事件も後を絶たない。

 今年は特にコロナ禍の影響もあり、うちに籠る時間も長くなっているから、ネットワーク技術の良い面も悪い面も、より強く体感しているのだと思う。本来、楽しいコミュニケーションツールであるはずであり、またそうあるべきなのに、どうして私たちはこんなにも苦しんでいるのか。改めて考えようと思う。


《SNS疲れ》

 近年、スマートフォンやその他情報通信機器の発達とともにSNSの利用者も増加している。(表1、NCT総研) 多くの人々がSNSを用いて情報を発信したり、他人が発信した情報を閲覧したり、リプライを送ってコミュニケーションをとるなどしてSNSを利用している。その一方で、SNSを煩わしく感じたり、過度な疲労感を覚えるなど、いわゆる「SNS疲れ」という問題も浮上している。スマートフォンやSNSの存在自体がそれほど歴史のあるものではないので、SNS疲れという言葉の定義も定まっていないように思うが、一応、大辞泉や朝日新聞社の知恵蔵にも記載されている言葉なので、そこでの定義を引用しておく。

SNS利用者の推移



「《SNS tired》ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)やメッセンジャーアプリなどでのコミュニケーションによる気疲れ。長時間の利用に伴う精神的・身体的疲労のほか、自身の発言に対する反応を過剰に気にしたり、知人の発言に返答することに義務感を感じたり、企業などのSNSで見られる不特定多数の利用者からの否定的な発言や暴言に気を病んだりすることを指す。代表的なSNSやアプリの名称を用いて、ツイッター疲れ、フェースブック疲れ、ライン疲れなどともいう。(デジタル大辞泉)」
 

「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を用いたインターネット上のコミュニケーションによる気疲れ。サービスの特色によって気疲れを感じる点が異なることもある。例えば、LINEでは自分の発言が読まれたにもかかわらず返信がないことが気にかかる、Twitterでは他人のネガティブな投稿が目に入ってくる、Facebookでは知人の充実した生活ぶりに嫉妬を感じる、Instagramでは写真映えする被写体を探すことに疲れる、といった具合である。また、SNSへの投稿が広く読まれる著名人の中には過剰な批判や的外れな反応に接して気疲れや苦痛を感じる者もいる。(知恵蔵)」
 


 SNS疲れとは、SNSに関して感じる疲労感を全般的に指していて、SNS疲れの原因に関する一般的な見解としては、上記引用部で述べられているような、相手の反応が気になったり、知人の充実ぶりが目に入ったり、投稿するような楽しいこと(いわゆるSNS映えするもの)を探したりするのに疲れるということが挙げられる。

 「もっとリツイートされたい」「もっと有名人と繋がりたい」といった願望を持つ人も多い。フォロワーをお金で買っている人までいて、薄気味悪い思いすらある。(ビジネス的に有効と判断できるのだろうが、気持ち悪さは拭えない。このテーマで何時間も話せてしまう。)
芸能人等の場合は、心無い誹謗・中傷や偏向報道に悩まされる場合もあるだろう。
 
私自身、有名人ではないし、注目され過ぎる故の悩みは体感したことがないので、今回は別段有名人ではない個人の利用者に着目する。その方がより臨場感をもって書けるし、結果的に良い記事になると思う。
 

 SNS疲れの原因を探るにあたって思考を整理しやすくするために、いかにして発信するかを考え、自分の発信が他人にどう思われるかが気になって不安になってしまうという「見せるしんどさ」と、
 他人がどんな発信をしているのかを見たり、その充実ぶりに嫉妬を感じたりするという「見るしんどさ」
に分けて考えていこうと思う。 


《見せるしんどさ》

 まずは「見せるしんどさ」についてである。この点に関しては認知的不協和理論を用いて考えるとわかりやすい。認知的不協和とは、社会心理学の用語で、自分の中で矛盾する二つの認知を同時に抱えると不快な気持ちになるというものである。

 例えば、自分はそれほど嫌いでもない人の悪口を友達が言っていて、その話に合わせているうちに自分もだんだんその人のことが嫌いになっていってしまうということがある。これは、「悪口に合わせてしまった事実」と「その人のことをそれほど嫌いでもないという感覚」が矛盾して不快感を生んでいるということである。

 例えば Instagramで疲れるというのは、実際の自分はそれほど充実しているわけでもないのに、さも充実しているような写真を撮ろうとするから疲れるのである。インスタ映えする写真を探すのに疲れるというのも同じで、大して感動したわけでもないのにSNSで映えそうな写真を取ろうとするから疲労感を感じてしまう。要するに、SNSで発信した自分と実際の自分が乖離していることが不協和の原因である。異なる二つの認知を同時に抱えることで心は穏やかでなくなる。

 
 また多くの場合、 SNS で発信する自分というのは「こんな風になりたい」「こうあるべきだ」と自分が考えている「なりたい自分」でもある。そのなりたい自分と実際の自分が乖離していることも不快感の原因になりうる。

 事実の感覚のズレ、理想と現実のズレ。
様々な”ズレ”が不協和となり、疲労感や不快感に繋がっていく。



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