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一花結び

星が降るような美しく静かな夜は、真白のことを思い出す。

貧しく、温かな家族もなく村人から見向きもされないような僕の妻になってくれた真白。

雪のように息を吞むほどの肌の白さと端正さ、そして何よりも細やかで優しく美しい心の持ち主だった僕の妻。

冬の乾いた空気から逃れるように瞳を閉じると、もう会える筈のない彼女の姿が浮かぶようだった。

閉じられた瞼の内側で少し潤いを取り戻した瞳は、そのまま僕の記憶と心の内を水分に変えて、涙になって膨らんでゆく。

真白。

僕は恋しく愛しい妻の名前を呼んだ。

会いたい。触れたい。言葉を交わしたい。

僕の想いは冬の冷たい空気と混じり合って、淋しく冷気の中に溶けてゆく。

***

僕は村はずれにある粗末な家に一人で住んでいる。
 
村人たちからも忘れ去られたような小さくておんぼろですきま風が入って来るような家だけど、僕が安らぐことのできる数少ない場所だった。
 
僕は孤児で、面倒を見てくれる大人もなく、いつの頃からか農作業の傍らに村人たちが忌むような仕事を引き受けて暮らすようになった。
 
村人の亡骸や道の端で死んだ動物の死骸の処理など、誰に言われなくとも僕が請け負い、密やかに埋葬を行っている。
 
村人たちは穢れに触れるといってそれを忌み嫌っていたが、僕はそんな風には思わなかった。
 
懸命な命の旅を終えて、生き物としての活動を止めた体に敬意を持って土に還すことが僕の役割だと考えている。
 
だから僕は村人たちから蔑みの眼差しを向けられても、時にそういう言葉を浴びせられても、大切な儀式のようにひとつひとつの死に向き合うようにしていた。

そうして僕の日常はささやかで静かな一人の時間として積み重ねられていった。そんな日々の中で、僕は真白に出会った。

ある日僕は、夜深の森と呼ばれる村人たちが寄り付かない森の入り口で行き倒れていた野犬の死骸を土に埋めて、一休みしてから家に帰ろうとしていた。
 
村人たちは夜深の森を死に近い場所だと言って近づこうとしなかったが、僕は森に神聖な静けさを感じ、時々訪れては心と体を休めていた。

森はいつも穏やかに僕を迎え入れてくれる。

村人たちは知らないだろうが、森の奥の方、一見すると光も届かないような鬱蒼とした先に、空からの光が幻想的に差し込む美しい花園があった。

その場所は、昼夜を問わず時間と光の素晴らしい移ろいを見せてくれる。

僕は時折、その場所で一人静かな時間を過ごしていた。
 
ここなら誰も来ることはないし、誰からも干渉されることもない。
 
僕に積極的に関わってくる人間などいなかったが、それでも否定的な視線を気にせずにいられるのは心安らかな瞬間だった。
 
冬の森は夜の訪れが早い。
 
僕は日暮れ前まで森で休んでから、家に帰ることにした。
 
鬱蒼とした木立を抜け、森の入り口に差し掛かると、白い羽を血の赤に染めた一羽の鶴が道に倒れこんでいた。
 
こんなところに鶴がいるなんて。それも怪我をしている。
 
僕は走って家に帰り、怪我に効く軟膏を持って来た道を走って戻った。
 
僕は鶴の怪我の状態を確認した。掛かった罠から無理に羽を引き抜いたのか、羽はボロボロで出血も多いようだったが、幸い命に関わる程の怪我ではなさそうだった。
 
軟膏を動物に試したことはないが、きっと効果はあるはすだ。
 
痛くても痛いと声を上げられるわけではないので、一刻も早く手当をしてあげたかった。
 
僕が傍に寄っても、鶴は怖がったり逃げたりしようとはしなかった。
 
ただじっとして、僕の方を見ている。
 
僕は大丈夫だからと声を掛けながら傷口を綺麗な布で清めて軟膏を塗った。
 
一通りの手当を済ませると、僕は一緒に持って来たモミや麦などの餌を鶴の傍に置いた。
 
この怪我では、餌を採るのも一苦労だろう。
 
どうか早く治りますように。
 
僕はそう声を掛けて、すっかり暮れてしまった帰り道を急いだ。
 
***

それから二週間ばかり経ったある日のことだ。
 
雪を待つような寒い夜に、家の戸を叩く人がいる。
 
とんとんと控えめに、けれど何度も。

この家を訪ねて来る人などいないので、僕は不審に思ったが、何度も何度も叩く音がするので戸を開けると、そこには息を吞む程美しい女の人が立っていた。

村の娘たちの中にも、こんなに美しい者はいない。
 
天女が間違って僕の家に降りて来てしまったのかと思った。

その人の肌の色は雪のように真っ白で、艶やかな黒髪は清らかな夜よりも深い黒を纏い、細い首が小さく端正な顔を支えている。

薄い着物に包まれた華奢な体がとても寒そうに見えて、風邪をひいてはいけないと思い、僕は怪しいということも厭わずに彼女を家に招き入れた。

「道に迷ってしまい、一晩の宿を探しております。夜分遅くにすみませんが、どうか今夜だけここに泊めてもらえませんか」
 
なんて美しい声だろう。姿形もさることながら、その声はこの世で一番麗しく咲く可憐な白い花みたいだった。

どんな事情があるのかわからないが、困っている目の前の人を放っておくわけにはいかない。

外は吹雪いてきて、女の人が一人で出歩ける状態ではなかったので、僕は彼女を家に泊めることにした。
 
「粗末な家で大したもてなしはできませんが、ここでよかったら泊まっていってください」
 
そう伝えると、心から安心したように柔らかい微笑みを見せてくれた。
 
その笑顔は本当に清らかで美しくて、村の娘たちはおろかほとんどの村人たちとも共に過ごしたことのない僕は、緊張しながら彼女とひとつ屋根の下でその晩を過ごすことになった。
 
***
 
 
翌朝は、小春日和と呼ぶには冬が深い頃ではあったけれど、晴れて暖かな心地よい朝だった。
 
前の晩、僕は一睡もできなかった。
 
家には布団が一組しかなく、僕は蓑を着けて寝るから布団を使うよう彼女に言ったが、突然押しかけて宿を求めた身だから使えないと言われ、結局ひとつ布団で彼女と眠ることになってしまった。
 
布団で寝てくださいと何度も強く勧めたがそのたびに強く断られ、しばらく押し問答が続いたところに、彼女が一緒に寝ましょうと言い出したのだ。
 
僕は仰天した。
 
そしてどんなに彼女の申し出を断っても、こんな寒い夜に布団を使わなかったら凍えてしまうからと言われて、それに従うことになった。
 
狭く薄い布団の端ぎりぎりのところに身を横たえ、手の甲や指が彼女の体に当たってしまわないように気をつけながら一晩中起きていた僕は、翌朝には体の左側がこわばってしまっていた。
 
布団にいる間ずっと目も固く閉じたままだったから彼女が起きていたのか眠っていたのかわからないが、僕とは違ってすっきりと美しい顔色で彼女は挨拶をしてくれた。
 
「おはようございます。昨晩は泊めてくださって、ありがとうございました。私は真白と申します」
 
真白。なんて彼女に似合いの美しい名前だろう。
 
きっと彼女はお礼を言って去って行くのだろうと思っていたが、彼女は家にとどまり、その晩も共寝をすることになった。
 
その夜も、僕は布団の中で寒さも感じられないほどに緊張して身を固くしていると、真白が話しかけてきた。
 
「こうして共寝をしているというのに、与一さんは私に何もしないのですね」
 
「夫婦でもないのに、何かしていいわけがありません」
 
目を閉じていても、彼女が僕の方を向いて真摯に話しかけてくれているのが伝わってくる。
 
「それに、僕のような男に、あなたみたいな綺麗な人はふさわしくない」
 
言ってしまってやりきれなくなったが、事実だった。
 
粗末な身なりで粗末な家に住み、村人たちからも疎まれている僕は、姿形も美しいというには程遠い存在だった。
 
固く閉じた瞼から涙が零れそうになり、瞼にさらに力を入れると、彼女は僕の手を握って言ってくれた。
 
「私を与一さんの妻にしてください」
 
聞き間違えたと思い思わず彼女の方を向くと、天女さまのように神々しいほどの美しさで僕を見つめ、もう一度言ってくれた。
 
「私を与一さんの妻にしてください。私は心の美しい、優しいあなたの妻になりたいのです」

僕の両の目からは涙が溢れた。

すると彼女は僕の肩を右手で優しく抱き寄せて、左手で僕の手を取るとその指に唇を寄せてくれた。

驚く僕に微笑みかけ、そのまま背中に手をまわして抱きしめてくれる。
 
僕はついに堪えきれなくなり、涙が流れ落ちていった。

僕の指は畑仕事と亡骸の埋葬とで酷使して、皮が厚くガサガサになってしまっている。
 
その指で彼女の滑らかで美しい肌を傷つけてしまわないように気を付けながら、僕は初めて生きた人の体に触れ、ありったけの真心と思いやりを注ぎながら彼女を慈しんだ。

そうして真白はその夜から、僕のたった一人の大切な、宝物のような妻になった。

***

真白との日々は、宝物そのものだった。

真白は僕が村で置かれている状況や仕事の内容を知っても、変わらずに僕を慕ってくれた。

僕の健康と幸せを願い、貧しくても精一杯僕に尽くし、そばにいることを選んでくれた。

僕は真白が人生の中にいてくれるだけで心から幸せでたまらなかった。

こんなにも太陽の光は明るくて、夜空の星は輝いて、世界のすべては慈愛に満ちているのだと知った。

ただ、一人きりでも苦しかった生活が二人になったことでさらに苦しいものになってしまい、それを気にしたのか真白は僕がいない昼間に織物を作るようになった。

使われなくなり、放置されていた機織り機を村はずれで見つけたから家に置きたいと言われて、僕はそれを家に運び入れた。

織り上がるまでは見せられないと言われたが、箱から少しはみ出していた作りかけの織物はたいそう美しく、僕はどうやって糸を用意したのだろうと不思議でならなかった。
 
そして織物の長さと呼応するかのように、真白はしだいにやつれていった。
 
ある日の昼間、いつものように仕事で外に出てみたが、どうしても真白のことが心配でならなかった僕は早めに仕事を切り上げて家に帰って来た。
 
真白は作業を見られたくないようだったので音を立てないようにそっと戸を開け中を覗くと、一羽の鶴が布を織っていた。
 
鶴は自らの羽を抜き、神通力だろうか、その羽を糸に変えて布を織り上げていく。
 
僕は目を疑い、驚きのあまり声も出せずに尻餅をつくと、その音に気付いた鶴は真白に姿を変えて僕の方に歩み寄った。
 
「本当の姿を見られてしまったからには、私はもうここにはいられません。この布を売って、生活のために役立ててください。そしてどうか、自分を大切にして、人と関わり、幸せになってください」
 
真白はそう言って僕に布を渡すと、再び鶴に姿を変えて大空へと羽ばたいて行った。
 
***
 
真白が僕の元を去ってから、一年目の冬が過ぎようとしていた。
 
真白のいない日々はただつらく虚しく、僕は自分の内側のすべてをどこかに置き忘れてしまったかのようだった。
 
ある寒さと風の強い夜、戸を叩く音が聞こえた気がして急いで開けると、そこには雪と風が吹いているだけで何もなかった。
 
僕はたまらなく淋しく苦しくなって、夜深の森へと走った。
 
月明かりの差す花園に出ると、僕は地面に伏して泣き声を上げた。
 
ああ、天の神様。
 
真白は僕の宝物でした。
 
誰からも相手にされなかった僕を優しい人だと言って、僕の妻になってくれました。
 
優しく愛しい日々を僕にくれました。
 
どうか、たった一目でいいので、もう一度真白に会わせてください。
 
そして真白に、ありがとうを伝えさせてください。
 
森の夜気は斬りつけるように冷たかったけれど、僕は一向に構わずに泣き続けた。
そのうち声も枯れ、泣き疲れた僕は冷え切った体のままその場に倒れた。
 
どれくらい時間が経ったのだろう。
 
一羽の美しい鶴が僕の体を覆うようにしてその羽で抱きしめてくれた。
 
それは真白だった。
 
真白は僕に話しかけてくれた。
 
与一さん、私はあなたを前から知っていました。
 
あなたはどんなつらい境遇にも耐え、優しい心を持ち続けていた人でした。
 
小さな生き物にも愛を注ぎ、命の終わりを迎えた者たちを労わり生きてきたことを知っています。
 
だから私はあなたの妻になることを願ったのです。
 
与一さん。
 
私は幾度時代が変わろうとも、あなたのそばにいます。
 
私の心と魂は、あなととともにあり続けます。
 
真白はそう言って僕をその羽で包み込んでくれた。
 
僕は心から安らかな気持ちで、静かに瞼と呼吸を閉じた。
 
***
 
月光が照らす美しい花園の中、清廉な夜の空気に見守られながら、与一と真白の体は輝く白い光になって星たちが待っている夜空へと昇っていきました。
 
そうして寒かった冬が過ぎ、暖かな春が訪れました。
 
二人が最期を迎えた花園には、一対の白い美しい花が咲いています。
 
二つの花は寄り添うように身を寄せ合い、他の花たちに囲まれながら、今日も明るい日差しのもとでその命を精一杯にほころばせているのでした。
 
***
 
​それから、どれだけの月日が流れたことでしょう。
 
御代は変わり続け、少しずつ時代は進み、そうして長い長い時間がこの星の上を過ぎてゆきました。
 
それでも春が来るたびに、同じ場所に同じ二人の白い花は咲き続けました。
 
巡る季節とゆく時間の中で、人々は争い、大地と海と大気を汚し、生き物たちの生命と居場所を危険に晒して歩みを進めてゆきました。
 
目に見えるものも見えないものも、あらゆる異物を排除してひたすらに進化と鈍化を続けました。
 
それでも真白と与一は、二人が安心して暮らせる日が来ることを信じて、ひたすらに同じ場所で咲くことを選び続けました。
 
幾春も、幾春も。
 
たくさんの時間が薄い地層のように積み重ねられ、やがて人々は他者を認める勇気としなやかさを持ち、世界は少しずつ優しくなり始めてゆきました。
 
そうして百世の後、真白と与一は春だけに咲く白い花ではなく、一組の男女として同じ時代の同じ日本に生まれ変わりました。
 
***
 
春。
 
とある神社の境内で新しい夫婦となる二人の結婚式が行われています。
 
暖かく眩しい光が降り注ぐなか、白無垢を着たとても美しい新婦が羽織袴の新郎に手を引かれて、嬉しそうに歩いています。
 
少し武骨で不格好な、けれど仕事熱心な新郎の手を、白くすべらかな新婦の手が優しく握っているのでした。
 
もう二度と離れることのないように、地面に根を張る力強い幹のように、しっかりと。
 
二人の結婚を、たくさんの人たちが祝福しています。まるで自分たちのことのように、穏やかで晴れやかな気持ちで。
 
かつての真白と与一は、眞白とはじめという名でこの世に生を受け、変わらぬ縁を紡いで再び出会い、お互いの絆と真心を確かめ合い今ここにいます。
 
きらめく春の吉日に、二人の手と縁は、明るい日差しのなかで解けることなく強く結ばれているのでした。

 

                          完

この小さな物語に目を留めてくださり、 どうもありがとうございます。 少しずつでも、自分のペースで小説を 発表していきたいと思います。 鈴木春夜