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大気圏再突入という名の帰り道

展翅零さんの歌集

【大気圏再突入】

その中から、いくつかの歌を抜粋しつつそこから受けた完全に私の個人的な感想や感情をつらつらと綴りました。

書き手の思い、また他の読み手の方々との思いとはかけ離れているものも多々あるとおもいますが……

私の【大気圏再突入】へ対しての感じたまま、思ったままの言葉として、ここに遺します。


まず頁を捲ると突然の空白、何も書かれていない真っ白い二頁から始まる。
これが、不慣れな製本故のミスなのか、意図したものかは解らないけれど…

何かが生まれる瞬間、一拍の緊張感があり一気に意識を(短歌を読むぞ)という気持ちにさせてくれる。

「さて 分娩室と似たひかり 朝のいつまで愛として降る」

始まりの一首として歌われる為に産み出されたと思わせる程、とても美しい産声の第一声です。

これを見て感じたのは、先程の空白の頁。
分娩室と似たひかり……というのは、自分の中では真っ白いイメージ。何色にも染まる前のひかり。

瞬間。
この歌集は【愛】なのだ、と強く印象付けられました。 


「ソビエトのSoyuz11思いつつテレビゲームの電源を消す」

この短歌には注訳的に「大気圏再突入の準備中に宇宙船の空気が失われ、搭乗していた3人の宇宙飛行士が窒息死した」という文が添えられている。

この歌集の表題でもある【大気圏再突入】に、一気に大きな意味合いを持たせる鮮烈な一首。

実際に起きた事故を引き合いに出しつつ、それを日常の一部に溶け込ませ、表現の自由というモノの表面張力を垣間見る。

一見すると、大事故を思いつつもテレビゲームをしているという無関心な冷たさを覚えますが。
こと電源を消すという行為が、個人的にこの歌の中では救いなのではないか、と。

電源を消す、から連想される言葉は【おつかれさま】や【おやすみなさい】

人生にリセットボタンは無い、とはよく耳にする言葉ですが。
例え残酷で耐え難い現実も、電源を消すように……という願いや救いを見ました。


「ショパンにはあの強姦を告げてある だれのいのちもひとしいことも」

軽いとか重いとか、言葉の重量では計れない。
ある意味で、この一首が一番重力を感じ無い。
大気圏の外側に弾かれている様な。
それなのに…どこまでも地に足が着いた。

手を伸ばしても届かない歌。

ショパンへの告白が、月が美しく見える夜なら良いな……と、思う。夜想曲を聴きながらなら、良いな……と、思う。


「モーツァルトが「生きてご覧」と頬に手をはさんでくれるニトリのベッド」

ショパンの葬儀が執り行われた際、モーツァルトの【レクイエム】が流されたそう。

関連性の問題ではないけれど、先程のショパンに強姦の事を告げた後……伝達のようにモーツァルトから生きてご覧と返事を受け取るような。

しかし「生きてご覧」というのは、考えるととても重たい言葉。
その言葉の重たさ、自分の身体の重たさを優しく柔らかく包み込んでくれる特別ではない、ただいつも通りの柔らかさでそこに在るニトリのベッド。


「宇宙はなぜ見えるのかって聞いてくる図鑑、泣いたことあったら見えるよ」

悲しい事があると、何故か人は天を仰ぐ。
涙を溢さないように空を見上げるのか。一瞬の現実逃避の為に宙に思いを馳せるのか。

そういう意味でも、人間が泣く時……そこには宇宙がある。泣かないと見えない宇宙がある。
それがただの暗闇だとしても。

自分は、直接的に涙を流さないけれど。
泣きたい気持ちになった時、よく空を見る。

なので間接的に、とても共感を覚える一首。


「許すことで生きていけるというならばわたしはずっと夕方の部屋」

夕方は、とても曖昧でどっち付かずで。
朝、昼、夜…の何処にも分類されない、居場所の無い悲しい存在。

そこに【ずっと】という言葉が入る事で、一層何処へも行けない姿が投影されているように感じて物悲しさが増す。

それでも夕方の部屋のイメージは、窓から夕陽が射し込み、花瓶の影が床に伸びてゆくのを眺めて時計の秒針の音だけが響く……穏やかさも併せ持っている。
時々、痛い程に眩しい夕陽もある。

許すことだけでは生きていけないけれど、許す事で小さな穏やかさを持てるかもしれない。


「こんなにも凍った涙を神さまは降らす いいよ みんなを愛してあげる」

いつだったか、誰かが言っていた。

神さまは水がある所に居るものだ、って。

だからきっと神さまは……涙を流す人の所に居るのだと思う。

それがたとえ凍り付いてしまっているとしても。


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この歌集は【Ⅰ】【Ⅱ】【Ⅲ】【Ⅳ】と四つの章に分かれている。
ここまでの歌は【Ⅰ】【Ⅱ】から抜粋させて頂いたモノ。

約半年間、幾度となく通して読んできた中で一番強く思ったのは、この章の【Ⅱ】から【Ⅲ】に切り替わる瞬間……

前半の【Ⅰ】【Ⅱ】の章では、主に自問自答するような独白のような「わたし」の歌。

そして後半の【Ⅲ】【Ⅳ】の章では【おまえ】【あなた】【ふたり】といった第三者が一首一首に含まれ始めて「わたし」だけではない歌が増えている。

ここでタイトルを想う。

大気圏再突入とは地球から宇宙へ行った宇宙船が、再び地球へ帰ってくる瞬間。
先述のSoyuz11の乗組員三名は、この大気圏再突入直前に船内の酸素漏れが発覚したが既に突入体勢に入ってしまっていた為に打つ手がなく、残念ながらそのまま地上(海上)に到達する前に全員が窒息死してしまっている。

それを踏まえて……

前半は大気圏外、宇宙で一人……残りの酸素量が減り心細さや焦り等が端々に滲んで。
読んでいる私までも、どこか常に息苦しさを感じている事に気が付いて。

後半【Ⅲ】章に突入するのと同時に、もしかしたらそこで展翅零という一人の人間は大気圏再突入を無事果たせて、大切な人の元へ辿り着けたのでは……と。

勝手な感覚ですが。
そういった解釈が出来るような、ハッキリとした変化が見て取れて、よりこの歌集を愛おしく思えました。

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「さいこうの学識として夜の雪ひかってみえることをおしえる」

学校では教えてくれない、社員研修でも習えない…何気無い人生の中で知識として捉えていなかった雑学のようなものにこそ【さいこうの学識】は存在する。

それもきっと間違いでは無いけれど。

さいこうの学識=夜の雪がひかってみえる、この一文で自分の中の価値観が一気に崩れ去って一気に再構築させられる程の衝撃を受けた。

この歌集の中の一首、という事に限らず…
自分の人生の中でも本当に大切な言葉、文章、日本語として刻み込まれました。

止まない雨はない、明けない夜はない、時間は進むだけで止まりも戻りもしない……そういった当たり前の事に気付かせてくれる名言めいた言葉は数多く存在しますが。
 
意識して、目を凝らさないと見落としてしまいそうな本当に何気無い物事。
息をするという生きる上で当然の事がツラくなった時、深呼吸の代わりにこの歌を思い出せば安心出来る歌。

人生の最期を迎えるその時までずっと持っていたい、御守りのような歌。

とても好きな歌。


「ああまた生殖か 性のあるからだを捨てておれがおまえのコンビニになる」

今の時代……コンビニエンスストアは、いつでも開いていて何処にでもあって、最低限の生活用品等が揃うので、それがあるだけで極論生きれてしまう。

以前、限界集落の話を伺う機会があったのだけれど、そこの村にはコンビニの移動販売車が定期的に飲食物や生活用品を売りに来てくれて、車が無い家庭や足腰が悪く近場の外出しか難しい方々にとっては、本当の意味での生命線だと言う。

しかし時に、生殖行為や性欲というモノは、その自分の命を繋いでくれている物(この場合のコンビニ)よりも優先順位が高くなる瞬間がある。

が、難しいのは生殖が無ければその【命】というモノ自体の意味も失われてしまうという事。
決して生殖を無視する事は出来ないというジレンマ。

それでも尚「おれがおまえのコンビニになる」という言葉に私は、諦めではなく……性という個に、コンビニという全で立ち向かうような力強さを感じました。


「待ち人の来ない深夜の喫茶店にて海のようにひろげる詩集」

深夜の、では無いのですが私もまた待ち人の来ない喫茶店でこの【大気圏再突入】という歌集を何度も何度もひろげました。

時にザァザァと強い波が打ち寄せる様な気持ちで。

時に耳を澄ませてウミネコが鳴くのを聞き逃すまいとする様に心を落ち着かせて。

あの待ち人が来ない不安を紛らわす為に、幾度となく海のようにひろげた事を思い起こさせてくれる歌。

不安と淋しさと、期待が入り交じる一首。


「わたしたちときどき痛む傷あともみえないまぶしい夕暮まみれ」

先述の「〜わたしはずっと夕方の部屋」に通ずる物があると感じました。

それでも、こちらの歌からは情景が浮かぶ程の温かみがあります。

わたしたち、という複数形の所からもですが…夕暮れまみれ、という所からも確かな温度が感じられます。

夕暮れにまみれている=屋外の夕陽を全身に浴びられる様な拓けた場所を想起させられて、お互い傷付いた過去があるのを知りながらも、夕暮れの直視出来ない程の眩しさの中で……一瞬だけだとしても、その傷の存在をも有耶無耶にしてくれる。

それが良い事かどうかは分からないけれど。

一人でだと夕陽の影に沈んでしまう所、二人なら夕陽の中に上手く溶け込める。

そんな希望にも似た匂いが、この歌にはありました。


「とうめいのゆめをあしたを傷つけるほど踏み出して「あ 桜」「桜きれいだー」」

歌集の最後を飾る一首。

過去はかわらないし、未来はわからない。

夢も透明だけど、未来というものもまた透明で……当然、明日も透明。

透明という事は、これから色が付いたりこれから形が創られていったりするという事。

そんな夢や明日よりも【今】

今が全て、というような直感的でとても素直で踊り出すような心で子供みたいに可愛いらしい言動の裏に、大人にしか分からない一寸先は闇を知りながら尚、一分先の薄紅色を愛せる美しさ。

最後も「あ 桜」「桜きれいだー」と、二人居る事が分かる描写もとても好きです。

よく【頭の中がお花畑】というどちらかと言えば蔑む意味で使われる事が多い言葉がありますが。

この一首に関しては、私はこの二人の頭の中がいつまでも花弁の舞い散る桜で充たされ埋め尽くされていたら素敵だな、と思いました。


そして、ここで改めて最初の一首に戻ってみる。

「さて 分娩室と似たひかり 朝のいつまで愛として降る」

最初読んだ時に確かに感じた筈の、あの無垢で真っ白い分娩室と似たひかり。

二周目、再び大気圏に突入しようとした瞬間、その色は印象を変えて……

どこか、産まれたての赤子の頬にも似て……喜びとも興奮ともつかない、少し上気した薄紅色のように見えた。

桜の花弁、愛として降る。


【大気圏再突入】

読了。

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