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「分かる」から分からなくなる? 言葉と格闘する日々を通して鍛えたいもの

校閲作業で励みになっている本の紹介をします。




ことばの基礎力

『ふだん使いの言語学―「ことばの基礎力」を鍛えるヒント―』
(著・川添愛/新潮選書)

理論言語学を学んだ著者が〝「言語学って何の役に立つんですか?」という疑問に取り組んでみたい〟(p.5)と冒頭に述べるこちらの本。

教科書のように文法の解説が並んでいるわけではなく、虎の巻のように「これが正解!」と理想的(とされる)文例を紹介しているわけでもありません。
載っているのは、言葉に対してアンテナを張ったり言葉を分析したりするための方法です。

まえがきを読んだところでハッとしました。

 (略)この本は「この言葉はこんなふうに使わなければならない」という決まりを集めたものではない。言語感覚には個人差もあり、また細かい言い回しは時代によって変わっていくので、何らかの決まりに従ったところで、それが万人から「良い」と受け止められるわけでもない。
 むしろ重要なのは、自分の中の「無意識の知識」を意識し、その中にみられる傾向や法則性をつかむことだ。そうすることで、「他人が自分の言葉をこのように解釈するかもしれない」とか、「自分のこの言い方は不自然に聞こえるかもしれない」などといったことに気づく機会が増える。そうなれば、別の言い方を考えたり、用例を調べたり、他人の意見を参考にしたりする機会も増え、状況に合った「最適解」が見つかる可能性が高くなる。私は、そういったことの繰り返しが「ことばの基礎力を鍛える」ことにつながると考えているし、理論言語学にはそのためのヒントが豊富に詰まっていると確信している。

『ふだん使いの言語学』pp.7-8
以下、引用文中の強調は小川による

毎日やってることじゃないか? これ。

「読者が記事の文をこのように解釈するかもしれない」
「記事のこの書き方は読者が不自然に感じるかもしれない」

言葉に対してそういうアンテナを張って、違和感を覚えたら本や辞書で調べたり、同僚と話し合ったり、(提案しないとしても)他の書き方を考えたり。
うんうん、してるしてる、と。

そして、読み進めるほどに「脳みそにダウンロードしたい…」と思いました。
というのも、「私たちの頭の中にある、言語に関する知識」(p.15)、つまり無意識の知識によって右往左往することが割とよくあるものでして…。


直感は十人十色

違和感が読者の誤読や誤解につながりそうなとき、差し出がましいとは思いつつ校閲から指摘をすることがあります。
詳しいやりとりをしている時間はないので、記事に赤ペンで指摘や提案を書き込んだものを見せ、判断してもらっています。

見比べるだけで、自然か不自然か、意味の通る文か否かの判断がなんとなくできる
言葉について、無意識の知識があるからできることです。

ただしこの無意識の知識、決して全員共通の感覚ではないのが難しいところ。
わたし自身も他の記者も読者の方々もそれぞれ言葉に関する知識や経験を積み重ねているのだから、身に付いた感覚が違うのは当然のことではあります。

同じ言葉が同じ感覚で受け取られるとは限らない

記事の言葉の形に違和感を覚えたとして、直してもらうにも、まずその「しっくりこない」を共有するのが難しいときがあります。
書き手に「確かにしっくりこないな」と思ってもらえなければ、対応してもらうことは当然できません。

これから「しっくりこない」の例を二つ挙げてみます。
皆さんの感覚ではいかがでしょうか。
「修正しなくてもちゃんと伝わる文になってますよ」「自分もそう書くかも」という声があるかもしれません。


「しっくりこない」の例

A:新人記者の素朴な指摘

まずは一つ目。

 大雨による土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水や氾濫などに警戒を呼びかけた。

※ダミーです

かつて新人研修で校閲部にやってきた1年目の記者がこの文を読んで、違和感があると言いました。
【《物事》 警戒 呼びかける】という形がしっくりこない、と。
…確かにそうなのです。

こういう指摘をしたくなる

一方で、この【《物事》に 警戒を 呼びかける】は新聞記事だと結構多用されている形だったりもします。
新人記者とわたし、少なくとも2人は違和感を持ったわけですが、新聞記事には使用例がある。
強い違和感のある表現としては指摘されてこなかったのでしょう。

結果として冒頭の指摘については新人記者に目をつぶってもらうことに。
しかしわたしは「その違和感、分かりますよ…!」という気持ちと板挟みになりました。
数年たった今でも、この表現に出合うたびに思い出す指摘です。


B:文脈と文の意味

二つ目にいきましょう。

 最近はコロナ禍で来館者からの寄付金が減り、収支が悪化しているという。このままでは館の運営が立ち行かなくなる恐れがあるとして、来館者への協力を訴えている。

※ダミーです

来館者に対して協力をする、ということかな…?
では協力を求められている対象は誰…?

と、読みながらしっくりこなかったので取材部門にこんな確認をしました。
この話の流れ、来館者が協力を求められる側だったりしませんか、というものです。

来館者の立場は、さて

もちろん、最初の文のままで問題ない可能性もあります(「館の利用者のために」と館が第三者からの善意を求めている場合など)。
確認した結果、この例では来館者=協力を求められる側とのことで、文は「の」を取る形になりました。


答えはないけど

明らかな文法ミスがある、文脈が破綻しているなどの「違和感があり直すべき文」と完璧につづられた「違和感なく問題のない文」の間、いわばグレーゾーンにおける「言葉や文脈に違和感がある/ない」の判断は人それぞれ異なります

万人に共通の線引きができない以上、自分にとって自然な言葉が相手にとっては違和感がある言葉かもしれないと思うと、自分の直感に不安を覚えたりもします。
自分自身の中ですら「変だと思ったけど改めて読むとそんなに違和感ないかも」と判断が変わることがあります。
「この文だと誤解につながりそうだから指摘した方がよさそうだ」という感覚にしたって、自分が気にしすぎなのか他の多くの人にも共通する違和感なのか、明確に区切ることはできません。

それでも他者の書いた言葉に声をあげないといけないことがあるのが、校閲記者の苦しいところ。

当たり前のことだが、言葉の使い方や理解の仕方が他人とある程度一致していなければ、円滑なコミュニケーションができなくなってしまう。言語というものの難しいところは、その知識が個人的なものであると同時に、公共的なものでもあるという点にある。

『ふだん使いの言語学』p.213

新聞の記事は報道、たくさんの人々へニュースを伝えるためにつづられる言葉です。
そうである以上、記者は言葉の公共的な側面に相応の注意を払う必要があるように思います。

『ふだん使いの言語学』で紹介している方法は〝「個人が自分の言葉を振り返るときに参考にする」〟〝「個人で気軽に楽しむ」範囲で〟使ってほしいと書かれていますが(pp.105-106)、絶対的な正しさがない中で他者の言葉に違和感を覚えたときにどうするか、ヒントが一つ示されています。

 他人の言葉を吟味するときに第一の拠り所となるのは、日本語の話者としての自分の感覚である。ただし、言語感覚に個人差があること、また言葉がつねに変化していくものであることを考慮すれば、自分の感覚を「絶対に正しいもの」として他人に押し付けるのではなく、あくまで「自分はこのように感じる」という形で表明する方が得策だろう。言葉の自然さの判断については言語学者の間でも意見が分かれるぐらいなので、簡単に「どっちが良くて、どっちが悪い」と答えが出るような問題ではない。他人の言葉に違和感を覚えた場合は、「それは変だから修正しろ」と命令するのではなく、「自分はこっちの表現の方がいいと思う」といった「提案」をして、採用するかどうかはその人の責任で決めてもらうのが良いのではないだろうか。

『ふだん使いの言語学』pp.217-218

(もう全部太字にしたい)

新聞制作の現場はただでさえ締め切り時間に追われて忙しない職場です。
そこへ的はずれな提案をして困らせてしまうのは、こちらとしても本意ではありません。
ちょうどいいさじ加減の提案ができるようになりたい…!
そのためには、言葉に向き合い「最適解」を探すことで鍛えられるという〝ことばの基礎力〟が、きっと役に立つはずです。

「違和感がある/ない」「指摘する/しない」のグラデーションの中で頭を抱える日々は、パチッと判断できない自分に打ちのめされて情けなくなることも少なくありません。
そんな右往左往も糧にして〝ことばの基礎力〟を培っていきたいと思っています。
より適した提案のため。
あるいは、無意味な提案をして混乱を生まないために。


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おまけ:「しっくりこない」を考えてみた

「しっくりこない」点について少し考えてみました(※正解/不正解を論じる意図のものではありません)。
こんなふうに品詞がどうだ助詞がなんだとあれこれ考え込まずとも読んだり話したり書いたりできる感覚が、誰にでもある。
つくづく言葉っておもしろいな…と思います。


Aの「しっくりこない」

 大雨による土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水や氾濫など警戒呼びかけた。

(再掲)

例えばわたしが同様の文を手癖で書くと、次のような形になります。

ほかに「氾濫警戒するよう呼びかける」とするのも考えられるでしょうか。

こうしてまとめてみると、例にあげた記事の形は①の前半と②の後半がまぜこぜになっているのが分かりますね。
《に》は動詞とセットになる要素を表す助詞の一つです。
例の形では、動詞とセットになるはずの「氾濫に」が名詞「警戒」とつながっている状態に見えて、しっくりこなかったのです。


Bの「しっくりこない」

 最近はコロナ禍で来館者からの寄付金が減り、収支が悪化しているという。このままでは館の運営が立ち行かなくなる恐れがあるとして、来館者へ協力を訴えている。

(再掲)

《の》は名詞と名詞をくっつける助詞です。
この《の》があると「来館者への」という部分は名詞である「協力」とつながって、協力の対象を表す要素になります。
つまり来館者は協力を受ける側です。
しかし記事を読んだわたしは、利用する来館者に直接協力を求めるのが素直な流れだろうと感じて(この感覚も人それぞれだと思います)、文の意味するところと話の流れに齟齬があると思ったのです。

《の》がなければ「来館者へ」の部分は名詞とのつながりを失います。
むき出しになった《へ》は動詞とセットになる助詞なので、「来館者へ」は動詞「訴える」の対象を表す要素となり、来館者は逆に協力を求められている側、協力をする側になります。