YATTANE(中編4)【ショートショート】
業界にはこんな言葉がある。
終わらない現場は無い。
トラブルが起きない現場は無い。
価格下落はAV業界でも起こっていた。
(※AV = オーディオビジュアル)
客先にもっと安くと言われたもので、
ある現場で色々と値引きをしたのだが、
別の現場でも同じ客から、
「もっと安い筈でしょ。
前の現場ではあの値段だったんだから」
と苦しい所まで値切られてしまう、
という負の連鎖が続くらしかった。
この業界も昔は相当金になったという昔話を耳にする。
不景気になった理由として出される常連はバブルだが、
要因はなにもそれだけではないのかも知れない。
男が属する会社の販売部とレンタル部。
この二つで比べてみると、
足を引っ張っているのは販売部らしかった。
レンタルというのは実機の値段分さえペイ出来れば、
あとは貸せば貸すだけ金が入ってくる。
それに引き換え販売部。
販売というのだから、当然品物を客先に納める。
その納める機材はというと、メーカーから買う。
ディスプレイ、スピーカー、パソコン。
いずれも高価な代物なので、
メーカー契約で割安な値段で卸せば利益は出るが、
客先も馬鹿ではない、何も知らない訳がない。
うまく値段ギリギリを攻めて交渉してくる。
となると、あとの利益と言ったら作業費のみ。
そんなの営業の手腕だろ!と言われればそれまでだが、
業界全体に蔓延(はびこ)った安値感覚は手強いらしい。
長年かけて建物を巡る蔦の様に、
あえぐ弱者を離さない。
その日は販売部の現場ではなかった。
男と鰻、二人してレンタル部のハイエースに乗せられて、
品川のとあるホテル会場へと送られた。
この業界にも閑散期、繁忙期というのはある。
それがレンタル、販売、互いにうまく噛み合う時もあるので、
販売部が手すきの時にはレンタル部へと人員が駆り出される。
品川のホテル、大会場。
行われるのはとある企業のパーティらしい。
祝賀か記念か、何にせよ金が動くので会社としては有難い。
機材も組みあがり、
ケーブルも引き終わり、
後は演者側のリハーサルだけという段階まで現場は回った。
しかしおや不思議、
そのリハーサルがなかなか始まらない。
「機材トラブルですかね」
男が思わず鰻にそう耳打ちすると。
「わかんない。僕この現場の責任者じゃないから」
とつれない返事。
男と鰻は販売部所属、ここはレンタル部の現場。
確かに気分はやや物見遊山、
ならば先輩に倣(なら)うかと諦めた男の腰が床に下りる。
しかし本当にリハーサルがなかなか始まらない。
事前に手渡されたスケジュール表の予定時刻もとうに昔。
仕方ないのでツムツムでもやるかとスマホを取り出す刹那、
会場に響く声が上がる。野太い男性の声だ。
なんだ、遂にリハーサルが始まるのかと男は思ったが、
聞こえてきた声の正体は怒鳴り声だった。
男のスマホで踊るミッキーマウス達が闇に消え、
鰻と一緒に男の顔が怒鳴り声の方へと向く。
見ると、誰かが誰かを怒っている。
うちの会社の人間か、止めろ、評判が悪くなる。
男はそう焦って視線を注いだが、
どうやら男の会社の人間じゃないらしい。
この現場を設営した男の会社のレンタル部、
それに仕事を回してくれた親会社のお偉いさんが、
同じ会社の部下を怒鳴っているらしかった。
会場自体は豪華なもので、
空間も広ければ天井のシャンデリアも凄い。
端から端に離れてしまえばコソコソ話も聞こえぬだろうと、
それほど大きな会場だのにも拘わらず、
その男性の声の、まぁ通る事。
お前は毎度そうだ、だの、
何度言ったら判るんだ馬鹿、だの、
怒鳴る言葉が一言一句漏れなく聞こえる、
鼓膜の中に捻じ込まれる。
一体どんなドンクサが怒られているのかと見てみると、
頭を垂れているのは背の小さい黒服姿の女性だった。
まるで発声練習でもしてたのかと思う程の声の通り方、
きっと会場に居るなら誰もが聞こえる怒鳴り声。
聞きたくもない罵声につぐ罵声が轟き響き、
会場内のどこかのドアが開く音が幽かに聞こえた。
誰かが聞くに耐えれずに出て行ったのだろう。
それにしてもまぁ出てくる出てくる、
罵詈雑言の数々よ。
男は聞きたくも無かったが、
怒鳴り声によるとリハーサルに必要な映像素材に問題があり、
それを用意するのが女性の仕事らしかった。
そこまで怒鳴る程に女性が毎回ミスをしてるのか、
それとも客先への面子の為にわざと大げさに怒鳴っているのか。
どちらにせよ、聞いている分には気分が悪くなる。
「怒られとるねぇ」
そんな中聞こえたのが鰻の声だった。
「映像で流す素材が準備出来てなかったみたいですね」
「映像無くてもリハやればいいのに。
僕はそう思うけどね。
台本読み上げるだけなら出来るやろ。
マイクで音量調節出来るやろうし」
「そうですね」
「でも、あっ、そうか。
映像音との兼ね合いもみなアカンのか。
じゃーダメダー」
鰻は相変わらずのふざけた口調で言葉を締めるが、
男がそれを逃さない。
「鰻さんだったらああはなりませんよ」
「ああって?」
「あんなに怒鳴らないですよね」
「まぁそうね。僕があんな事したら喉切れちゃう。
見てよこの繊細でプリチーな喉を」
「そもそも俺、鰻さんに怒られた事ないんですけど」
「ええーあるよぉ」
「いつですか」
「それは知らんけど」
「俺、鰻さんにやったねとしか言われた事ないですよ」
「ええー本当?君そんなに優秀やっけ?
僕だって本気で怒る時は怒鳴るよ」
「残念ながら怒鳴られた事ないですね。
毎回やったねって言われて、
毎回鰻さんの事ぶん殴りたいと思ってます」
「なんてひどい後輩や、先輩を殴りたいだなんて」
「嘘ですよね」
「え?なにが」
「鰻さん、本当は怒鳴った事なんてないでしょ。
この仕事してて。」
「いや、あるよ、昔はよく怒鳴ってた。若い頃は」
「嘘ですよ、信じません」
「まだ佐々木も入ってくる前、本当に駄目な奴がいたの。
倉本っていう奴でね本当に駄目なの。何やらせても駄目。
僕も頭にカッチンきて怒りまくったのね。
そしたら会社辞めちゃってさ。
これはまずかったかなって思ったの。」
「はい」
「じゃあ逆ならどうだって思ったの。
それで次に入ってきた南って子にはミスする度、
やったね!というようにしたんやけど、
結局その子も辞めちゃったの」
「どうして」
「仕事が性に合わないだのなんだの理由付けて。
やってる時は割と楽しそうにしてたんだけどね」
「それは鰻さんが居たからじゃないですか」
「え?君僕と仕事してて楽しい?」
「めっちゃ楽しいです」
「ホンマか!じゃあ何か特別手当ちょーだい!」
「話の続きを」
「なんやノリ悪いな。
部下を育成するのも先輩の役目やけどさ、
でもどんなにこっちが良くしても、
人それぞれ都合や理由があるやんけ。
今は君と佐々木が居てくれるけど、
それまでは結構入っては辞めて行ったんよ。
まぁ、この業界割とハードな所あるし」
「はい」
「んで、
結局こっちがどうこうしてもそれぞれの都合に左右されるなら、
んじゃあこっちも気持ちよく仕事出来るようにしよう、
って思ったの。」
「……え?いやどういう事ですか」
「怒るのって疲れるでしょ。違う?」
喜怒哀楽。
喜怒哀楽とは人間の感情種を表した言葉。
喜び、怒り、悲しみ、楽しむ。
他にも細々とした感情は確かに人間に存在するが、
この四つが主に取り上げられる。
あまり知られていない理由だが、
この四つの感情が一番『エネルギー』を消費する、
という理由かららしい。
「僕嫌やねん、怒って疲れるの。
怒るの好きやないし得意でもないし。
怒った後ってモヤモヤするし、仕事はあるし、
そんな気持ちで仕事してたくないやん。どうや?」
「そうです」
「やろ?ほな気分ええ方がええやろ。
だからやったね!って言うんや。
確かにな、他のやつから見たらちゃんと怒れよ言うかも知れん。
部長のつっちゃん(土屋)とか、営業の井上とか。
他の会社の人間が見ても多分そうやろ。
部下や後輩がミスしたら怒る。
いや、もう時代は結構変わって来てるんかな。」
僕もこの会社にしか務めた事がないし。
そう言った鰻は男に尋ねた。
君が居た以前の職場はどうやった、
罵声が飛び交う現場やったか、と。
「いや、事務だったからですかね、
怒鳴られる事は無かったです。
怒られたとしても静かに怒られると言うか。
だからこの会社に入って現場に出た時ちょっと驚きました。
下請けの職人さん達、凄く怒鳴り合うもんで」
「あの人達はそういう世界だから。
でもあっちはあっち、こっちはこっち。
あっちが怒鳴ってるから、じゃあこっちもなんてやってたら、
もう僕、疲れちゃう。
家に帰って嫁とモンハンもせないかんのに。
仕事で余計に疲れたないねん。
世の中が下のミスに対して怒るっちゅう空気でもな、
僕はやったねと言い続けるよ。それが駄目だと言われても。
世の中どこかには変わりモンがいるやろ。
『正しい』コトはその他大勢の人達に頑張ってもらお。
僕一人だけがこの方法でやっても世界は滅ばんやろ。
そう考えたら(気が)楽なもんやし、
それに結構楽しくなんねん、やったねって言うと。
言われる方も楽しくならん?やったねって」
「俺は毎回殴りたくなりますけどね」
「ええ~、やめて?
君そんなアグレッシブな子やったん?」
「毎回マジでイラっとしてますから」
「でもそれなら正解や、
イラっとしたくならんようにミスせんくなるやろ?
ホラ、僕、天才!流石や!この方法は間違いやなかった!」
「あーもうホントこの先輩ぶん殴りたい」
「ええ?ヤメテ?
おまわりさーん、このひとですー」
音響を触る様になって男が言われた言葉がある。
『音』に正解は無い。
聞く場所によって音は違うし、
聞く人の感覚によって心地の良い音は違う。
音の世界にこれだ、という正解は存在しないのだと。
果たしてそれは音だけか。
喜怒哀楽。
四つの世界に答えはあるか。
正解と呼べる頂(いただき)はあるか。
誰も彼もが「正解だ」と嘘を吐き、
自分の都合を他人に押し付けてやしないか。
だが鰻の「やったね」は、
少なくとも男にとっての「間違い」ではなかった。
会場内に響く罵声が収まった。
どうやら客先が宥めに入ったらしい。
照明がささやかな暗い会場に、
女性が鼻水をすする音が聞こえる。
この女性が本当に仕事が出来ないのか、
それとも上司が過度に怒り過ぎるのか。
男には答えの欠片も判らなかった。
この現場で男が鰻の「やったね」を聞く事は無かった。
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