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YATTANE(後編1)【ショートショート】

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年は男盛りの三十路前。
日々追って来るのは仕事だけ。、
これが女だったらモテモテだけど、
現場は男ばかりの艶知らず。

それでも男は現場を楽しんでいた。

そんな男が入ったある現場、
場所は新宿、高層のビルの一角。
日中に人で活気づく建物の中というので、
作業時間は夜の八時を過ぎてから、
朝の六時を回るまで。
これ即ち昼夜逆転の生活を意味しており、
しかも工期は三週間と来たものだからさあ大変。

「こんなん身体おかしゅうなるで」

現場に向かうハイエースの中でそうボヤいたのは鰻。
しかし男達はサラリーマン、
回ってきた現場を選べない。

眠気と戦い、
太陽が恋しくなり、
どうにか身体を壊さぬうちに工期は無事満了。
無事に現場を終える事が出来た後、
現場に携わった面子で打ち上げをする事になった。

この業界では現場の終わりはトイレと同じで、
やる事が終わったら愛想も無くまた次の現場にいくものだ。
それなのに打ち上げをするというのは非常に珍しい。
それは如何にこの現場が大変だったかという証明でもあった。

作業員三名、営業二名。
総勢五名の酒の席で、
銘々現場の思い出話に花が咲く。

現場に入っていた他の業者、
取り分け建築との軋轢の激しさを懐かしむ者在り、
勝手にブレーカーを落とす電気屋に不満を漏らす者在り。
男も建築の責任者に些細な誤解で目を付けられた事を話し、
酒の談議に花を添えた。

再通季の社員達は業界のスタイルからか、
なかなか社員同士で酒を酌み交わす機会がない。
仕事の忙しさがそれを許さないので仕方がない。
その反動からか、この日の酒の席はいよいよ賑わったが、
残酷な事に、平日なので明日も仕事が待っている。

誰かが言った「さぁもうここらで」という言葉を皮切りに、
営業二人が会計を巡って押し問答を始めた。
ここは俺が出す、いやいや僕が、のせめぎ合い。
それがなかなか収まらないので佐々木の鶴の一声、

「もう経費落としにしちゃえばいいのでは」

で「それは名案」と、
赤ら顔の営業二人が矛を収めた。

場所は新宿、空は夜。
日付が変わるまでは、まだ余裕がある。

他の三人が前を歩き、男と鰻がしんがりを務める中、
ビルの間を抜けた夜風が少し強く吹いている。

立ち並ぶ高層ビルの窓は、
何故いつも電気が付いているのだろう。
まるでそれが都会のシンボルだと言わんばかりに眩しく、
男の横を歩く鰻は顎を必死に上げてそれを眺めていた。

「皆、遅くまでご苦労さんやな」

酒のせいできっと、心の栓が緩んでいる、
思った事がだだ洩れる。
誰にという訳でもなく、鰻がそう呟いた。

「今日ばかりは俺達が先ですね」

鰻の言葉を男がそう拾うと、

「せやな」

とだけ返された。

男達五人、それぞれが家に帰ろうとするが、
赤目に腫れたの信号機が邪魔をする。
別に急ぐ訳でもない男達が緑色に変わるのを待っていると、
今度は男から鰻に話しかけた。

「あの」

すると、

「辞めるんやな」

と、突然鰻が男に聞き返した。

信号機はまだ赤い。
酔っ払いの男が五人、
横断歩道の前で立ち往生している。
今夜の新宿は酔っ払いが多いのか、
遠くから誰かの大声が聞こえた。

「辞めるんやな」
「   はい」
「そうか、よし、もう一軒いこか」

そう言われた男は冷静で、
言った鰻も冷静で、
どちらも慌てた様子はない。
二人の口から洩れるように出た言葉が、
新宿の夜の風にただ、音もなく溶けるだけ。

鰻が他の三人に先に帰ってくれと言った。
男と飲み直すからと説明する。
それを聞いた他の三人は少し驚いた顔だった。
何で、どうしてという短い疑問符がポロポロ漏れる。
それに鰻が焦らす様子もなく答えた。

「こいつ、会社辞めるねんて」

鰻の口調は静かで、
まるで何の変哲もない事を言うかのような。
でも、それは違うだろと言わんばかりに、
佐々木の吹き出した声が咎めに入る。

「え?辞めるの?どうして?」

まるでこれが正しい反応だと言わんばかり。
けれども鰻は落ち着いた構えを崩さず、
男もまた、臆する事のない静けさを保つ。
男の覚悟は出来ていた。

「だから僕、ちょっと話したいからもう一軒行くね」

鰻はそう言ったが、そうは問屋が卸さない。
そんな言葉が似合う剣幕で他の三人が問いただす。
どうして、何で、一体、何が。
それなら俺らも付き合うからよ、
皆で行こうぜもう一軒。
信号が青になっても渡らぬ五人、
新宿の一角が急に賑やかさを増した。

はぁ、またか。
お前、またなのか。
俺はあの時相当苦労した。
もうこんな苦労は二度と無いと思っていたのに。
それなのにお前、またなのか。
もし胃が口を聞けたら、きっとそう言うだろう。

男が最初に入社した会社を辞める際、
それはそれは胃がキリキリと痛んだ。
もう二度とこんな痛みを味わう事も無いだろう。
この一度だけだと信じて痛みに痛んだ胃が、

「お前、俺を騙したな!」

とばかりに怒り、
道連れだと言わんばかりに大げさに痛んでいる。
男はおよそ四年振りの深刻な胃痛を迎えた。
酒を胃に入れるなら染みる事間違いない。

それでも頼まずにはいられない。
一度は店の暖簾をくぐった五人、
また仲良く別の店の席に座り、
口々に話のアテの酒を注文する。

男はまるで丸焼きの真っ最中の様な胃を抱えつつ、
カシスオレンジを一つ頼んだ。

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