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新宿は動じない。
たかが会社を辞めるくらい。
そんな事では動じない。

新宿と言う街は動じない。
入社退社なんて茶飯事過ぎて、
血が体を通う程に慣れている。

日毎に何万という人が出入りし、
日夜動くのは何億という額の金。
誰かが誰かを出し抜き笑い、
誰かが誰かを騙してる。

そんな新宿が動じる筈が無い。
たかが人間一人の退職に、動じる訳がない。

そんな街の中、
男を含む五人と言えばまるで余所者で、
小さな飲み屋に神妙な顔をして入り直した。

「それで、どうして辞めるんや」

カシスオレンジ。
ハイボール、コークハイ、
カルーアミルクに、カンパリロック。
飲み直すと言う事もあってか、
誰も生ビールを頼まずに、
可愛らしい飲み物ばかりが机に並んだ。

「実は」

と男が喋り始めて終わるまで、
気付けば五人ともコップの中の酒が薄くなっていた。
誰も頼んだ酒に口を付けなかったからだ。
中の氷が気を遣ってゆっくりゆっくり溶けたのに、
どのコップの中も、ただ濃度がどんどん変わるだけ。
氷が溶けてアルコール濃度が薄くなる。

男が喋り終える頃にはどのコップの中身も、
もうすっかりジュースの様な味になっていた。

「はぁ、知らんかった。
 小説家になりたかったんか。」

話を聞き終えてまず最初にそう言ったのが柏木だった。
柏木は関西本社の営業、自然関東の面子とは交流が薄い。
何度か株主総会等の全国行脚の現場で男と会ってはいたが、
男の入社前の経歴の噂までは耳に入って無かった。

男は鰻達四人を前に丁寧に説明した。
小説で喰おうと以前の職場を辞めた事から始まり、
二年間負け続けた賞レース結果も、
山手線のつり革も。

それで一度諦めて会社に入った事も、
格好の悪い部分は格好の悪いまま話した。

本人の口から全てを聞くのは鰻も佐々木も初めてである。
鰻を腕を胸の前で組み、
佐々木は両手を机の下に隠してじっと聞いていた。

「ウナさんは気付いてたんですか」

柏木から鰻へ。
佐々木も鰻の顔を見る。
男は鰻の顔が見れなかった。

「そりゃ気付く。
 だってコイツ、現場で会う度会う度、
 どんどん顔がキツくなっていくんやもん。
 最後の方なんて僕、刺されるんかと思ってたわ、
 目付きが鋭すぎて。」

そんなでしたかと男が聞くと、
お前自分の顔鏡で見とらのか、と鰻。

「今まで他の現場でそんな事なかったし、
 それで神妙な顔して僕に「あの」って言うんやもん。
 そりゃもう、あ、コイツ辞めるんやな、って思うたわ」
「また小説家目指すってのも?」
「いやそれは知らんけど、でも辞めるんやなってのは判った」

男、年齢は三十路間近。
年が明ければ三十歳だった。

「でも今のうちやな、やりたい事に挑戦するのって。
 若いうちはやったらええわ。」

そう言ったのはもう一人の営業、向井。
向井も柏木と同じく関西本社の営業だったが、
柏木の師匠であり先輩で、関西でも凄腕の営業で鳴らしていた。
その向井が言った「若いうちは」という言葉に、
男は少し驚いた。

「若いって言っても、もう俺三十ですよ」
「そんなもんお前、俺から見たらまだ生まれたてや。
 三十なんてまだ若い若い、体も動くやろ。
 まだエネルギーもあるさかいやったらええんや。
 三十で、あ~もう老いたから辞めとこ、なんちゅうて、
 四十なった時に、あ~あの時まだ若かったんやな、
 とか判ってボヤいても手遅れやで。
 先に生きてるオッサンが教えたるわ、
 三十なんてまだ若い。」
「向井さんがそう言うと説得力あるなぁ」
「せやろ柏木、お前のそのへっこんだ腹も今のうちや。
 あと十年もしたら俺みたいにタヌキになるで」
「嘘でしょぉ、それは向井さんが運動せんからでしょ」
「運動なんかしてられるかい、もう腕もあがらん」

ところでオイ、結局どこまでいったんや。
そう言った向井の言葉が会話の色を変えた。

小説家になりたいゆうたかて、
今まで色んな賞に応募してきたんやろ。
それで本当に何にも引っ掛からなかったんか。
正直二年で微塵もかすりもせんかったちゅうんやったら、
流石にこちらも引き留める気になるもんやが、どうや。

それは今まで、
会社の誰一人として男に聞いた事の無い話題だった。

口を付けないコップを前に、
佐々木も鰻も指一つ動かす素振りが無い様子から、
この会話の責任を少しも負いたくはないらしい。

なかなか返事をしない男を見てか、
内心向井も禁忌の話題に触れたかと、
顔色は変えずとも内心冷汗をかいた。

「――、一度だけ、最終選考まで残った事があります。
 ある日電話がかかって来たんです、出版社から。
 名前を確認された後に、最終選考まで残ったと知らされました。
 何人残ったんですかと聞くと、
 あと四人の中の一人が貴方ですと言われました。
 じゃあ、全体で何人の応募があったのかと聞くと、
 ざっと、750人。
 それを聞いた瞬間、頭の後ろの方が、ぐっと来て、
 頭の中で関ヶ原の様な戦場が見えました。
 だだっ広い草ッ原のど真ん中に、
 息を切らしながら刀一本だけ持って俺が立ってるんです。
 地面は凄い事になってました。
 鎧兜を着込んだのやら、ふんどし一丁の奴やら、
 最終選考に残らなかった七百人の身体が転がってました。
 でもそいつら全員が事切れている訳じゃなくて、
 死んだふりしている奴も混じってるんすよ。
 で、視線を上げると、
 離れた所にポツン、ポツンとあとの三人が立ってるんです。
 そいつらの姿が見えた時、懐かしいような感じになりました。
 懐かしいと言うか、仲が良いと言うか。
 ああ、お前らもここまで残ったのかぁ、って、
 変な仲間意識みたいなものが出たんですかね。
 でも、その三人、ぶっ倒さないといけないんです。

 ああ、賞レースってこういう事なんだなぁって。

 千人集まろうが二千人集まろうが、
 死んだふりして転がってるような奴はどうでも良いんですよ。
 最後に寂しく立ち続けられる猛者が何人混ざってて、
 そいつらに勝てるかどうか、ってのがレースなんだなぁって。
 それで、
 最終選考で俺は負けました。
 そこでもう一つの事が判ったんです。
 レースで一番悔しい想いをするのはドベの奴じゃない、
 二位です、二位が一番悔しいんです。
 一位をもぎ取ろうと死に物狂いで試行錯誤して、
 もうこれ以上無いという努力をした末に二位に甘んじる、
 この悔しさと言ったら。
 俺は最終選考に残ったという電話を貰った時、
 当然だと思いましたし、大賞も取ると思っていました。
 それほどの作品を作ったと言う自負もあったんです。
 それが二位だと、大賞逃したって判って、本当に悔しかった。
 今までで一番悔しかったです。
 電話の一つもかかってきませんでした。
 ネットで出てた結果を自分で見ただけです。
 胃がネジ切れそうでした。」

そこまで言い終わって男が手にしたコップ、
その中は液がなみなみと入っていた。
五人の耳に聞こえるのは零さぬようにと男が液体をすする音、
それと店内に流れる岸部眞明のギターの音色だけ。

沈黙は見えぬ鋼(はがね)。
触れぬくせに非常に重く、
視線も上げれず相手の顔も見え辛い。

だが、鰻。

「やれるんか」

鰻だった。
男にそう尋ねたのは他でもない鰻だった。

「最終選考に残った事があるからって、
 今辞めても、やれるんか、君」
「正直分からないです。
 物書きは同じ事やっちゃ駄目なんですよ。
 最終選考まで残ったからって、
 それと同じ物書けないんです。
 全く別の物を新しく書かなきゃいけない。
 内容も登場人物も、下手すれば文体も。
 最終選考に残った経歴なんて、正直今ではクソです。
 何の役にも立ちません。
 ヒット飛ばしていた作家が急に書けなくなったりする、
 そういう世界なんですよ。」
「そういう世界に君はまた戻るっちゅうんか。」
「ですね」
「なんでや、正直会社に残った方が良いんとちゃうか。
 ここならケーブル繋いで図面引いて、
 後は材料用意して僕とモンハンの話してたら金貰えるで」
「鰻さんモンハンしてるんですか」
「嫁と一緒にな。
 ちょ、向井ちゃん、話の腰おらんといて。
 なぁ、何で心変わりしたんや。
 僕がこういう事言うのもなんやけど、
 一度は諦めてきた道やろう。」

鰻の言葉を聞いて怒りはしなかった。
ただ、うん、うん、と男の首は二回頷き、
それは敵意の無い表れに等しい。

「夜中の二時に、目が覚めるんです。
 それで一本オハナシ書くんですよ。
 寝られるんですよね。最近ずっとそうしてました」
「夜中に目が覚めるってアレか、もう寝れてたんちゃうんか」
「嘘吐いてました、すいません。
 で、この現場、昼夜逆転のせいか書けなくなって。
 もう自律神経か何か判りませんが身体が滅茶苦茶、
 書いてる余裕も無い有様、
 それがどんどん負荷かけるんですよ、心に。
 もうこりゃ駄目だと思って、はい」
「辞めてまた書くんか」
「はい。それに鰻さんのせいですよ。」
「えぇ?何がぁ」
「ミス報告する度、やったね!って言うじゃないですか。
 何回ぶん殴りたいと思った事か。」
「あぁ、ウナちゃん、言うもんな、ソレ。」
「それ聞いててなんかこっちも変になるんですよね。
 失敗した事がそんなに悪いもんじゃないなと思って。
 そうすると、過去にやった失敗も溶けてくるんですよ。
 何度も落選した時の感覚とか、
 前はもう思い出しただけで吐きそうでしたけど、
 今は何か、ああ、そっかぁって軽くなりました。」
「僕のせいでか?」
「鰻さんのせいで?」
「君が辞めるのも僕の?」
「まるっきり関係ない訳じゃないです」
「えぇ、勘弁してぇや」
「それと」
「なんや」
「俺、物書きって恥を売る商売だと思ってるんです。
 それなのに、まだ恥、かききってないと気付きました。
 とことん格好悪くなるまで足掻いてない所で辞めて、
 まだまだ恥の上塗りしなきゃ駄目だな、と。」
「君の話を聞いてて一つ、判った事があるわ。」
「なんですか」
「君と僕、全然思考回路が違うな」
「そうですか。」
「あとな、この会社に居ながらじゃ小説は書けへん」
「はい」
「残念や」

残念や。
店を出るまで、
それ以上の言葉を鰻が言う事は無かった。

一番男と接している鰻が何も言わなくなったのを見て、
他の面々が引き留めの言葉を継がなくなったのも道理。
差し詰め目の前の薄い酒は『諦め』の手先。

この次の日、
男は部長の土屋に退職の話を切った。


※岸部眞明(きしべまさあき)
日本の誇るギタリストの一人。
1964年生、2020年現在存命。
アコースティックギターのフィンガーピッカーとして屈指の技術を持つ。

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