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札幌ろう学校「日本手話」訴訟請求棄却に思う

札幌ろう学校に通う児童が、日本手話ができない先生が担任になり、意思疎通ができなくなり一時不登校になっていたということがありました。
そこで、日本手話で授業を受ける権利を、憲法が保障する「教育を受ける権利」を侵害されたとして、小学部5年生の男児と卒業生の女子生徒が北海道にそれぞれ550万円の損害賠償を求めた訴訟がありましたが、札幌地裁は原告側の請求を棄却する判決を言い渡したようです。

判決では、守山修生裁判長が、

日本手話で授業を受ける権利が、具体的に憲法上保証されたものとは言えない。
日本手話以外での表現方法でも、教師と児童が一定のコミュニケーションを取ることは可能。

と話したようです。

賠償金を請求したので、賠償金までは出さなくていいと判断されたのか?
日本手話のできる先生を配置してほしいという願いならまた違ったのか?
そもそも、それでは裁判にならないのか?
このあたりの詳しいことはわかりませんが、問題はこの判決文ですね。

僕はこの判決文は、到底納得できません。

日本手話以外の表現方法でも、教師と児童が一定のコミュニケーションを取ることは可能。

もちろん、可能な子もいますよ。
そして、原告も一定のコミュニケーションは取れたでしょう。

その一定とは何なのか?

学校の授業とは、
義務教育とは、
話している内容は完全にわかる必要があるはずです。

内容が難し過ぎて理解できないなら、かみ砕いてわかるように伝えることが必要です。

それが学習じゃないんですか?
子どもたちの当然の権利ではないんですか?

原告の児童、生徒は、「よくわからなかった」と言っています。
自分の理解を超えてわからないじゃないんです。
話している言葉がわからないんです。

日本語対応手話は、要するに日本語です。
聴覚を使えない子たち、そもそも日本手話で育った子たちであれば、日本語は外国語です。

外国に行ってるのであれば、外国で学ぶ必要はあります。
わからなければ帰国するしかありません。

でも、日本人が、日本で学んでるんです。
そして、聞こえない子たちは、手話という言語を使う場合もあり、手話は日本語とは全く違う別の言語なんです。

日本語対応手話、すなわち日本語での説明がわからないから、日本手話で教えてほしいと言ってるんです。

学習に関しては、理解という点で、一定の理解が得られていないわけです。

しょうがないというのでしょうか?
日本語がわからない方が悪いというのでしょうか?

聞こえないんです。
だから、聞こえなくてもコミュニケーションが取れる手話という言語ができたんです。
聞こえない人たちの言語です。

聞こえないわけなので、音声日本語では、わからない部分があるんです。
でも、日本手話であれば全て言葉はわかるんです。

そのあたりのことを、聞こえる人間はわかってない人が多いです。

そして、ろう学校という、聞こえない子どもたちを対象とした学校でも、やはりわかってない人が多いんです。

ちょうど、僕の身の回りでもありました。

最近は、ろう学校も、音声日本語寄りの子や、手話寄りの子など、いろんな子たちがいます。

音声日本語メインの子、手話メインの子が同じクラスだとどうななんでしょうか?
そんな場合に日本語対応手話をすると、日本手話の子たちはよくわからない面も出てくるはずで、その辺はどうしてるのかなとろう学校につい最近聞いたんですけど、

「それは日本語対応手話でわかってるので大丈夫です」

とのことでした。

いや、百歩譲って、今困ってる子はいないとしても、この言い方だと、何の対策もしてないってことになりますよね。
いや、対策をしてないというか、そもそも、そんなこと考えてないという雰囲気でした。

「日本語対応手話でわかってるから」

本当にわかってるんでしょうか?
何を持ってわかってると言ってるんでしょうか?

もしかしたら、学力が低いと思っていたけど、日本語がよく理解できてなかったということは往々にしてあるはずです。

もし、今はないにしても、そういうことを想定して、日々子どもたちと接する必要があるはずです。
理解が低いなと思ったら、もしかしたら日本手話の表現でないとわかりにくいんじゃないか?と、対応を変えることも必要でしょう。

そういう想定を全くしてない言い方でした。

まさに、今回の札幌ろう学校の判決と同じだなと思いました。


札幌ろう学校の件は、北海道の見解としては、
「要求は公教育制度の範囲を逸脱している」
と言われていたようですが、これにも納得いきません。

札幌ろう学校の先生たちはどう思ってるんでしょうか?
北海道の見解と同じく、「逸脱してる」と思ってるんでしょうか?
日本手話を求めている児童、生徒さんなら、日本手話で授業をして、コミュニケーションをとりたいと、せめて先生たちは思っていてほしいと願っていますが。

日本手話をできる先生の確保が難しいのはあると思います。
じゃあ、どうするかを考えてほしいんです。

公教育制度の範囲を逸脱しているとか言ってる場合じゃないんですよ。
確保が難しいなら、手話通訳をつけるとか、方法はあるはずです。

また、育成のためにこういうことをやるとか、もしかすると、在学中は叶わないかもしれないけど、後進のために、こういう対応を取るとか、そういう建設的な話はできないんでしょうか?

まあ、この辺は経緯を知らないので何とも言えませんが、和解交渉が決裂したと書かれていたので、そういう話をしようとしたけどだめだったのかもしれません。

今回の判決文は、学校も努力してるから、日本手話でなくてもしょうがないですってことなわけで、こんな判例は、断じて作ってほしくないと思っています。


札幌市は、手話言語条例も定められています。

そもそも、手話は言語だと条例で定めなければ認めてもらえないことがおかしな話ですけど、条例で定まってるのにもかかわらず、この判決は一体何なんでしょうか?

手話は言語ですよ。

全然その意味を理解してないじゃないですか。

難聴全般、そういう理解が多いんです。
ふわっとしか見られてなく、
軽く見られてしまう。

あの児童、生徒たちが
「授業が受けられなくて苦しい」
「通じない、わからないところが多かった」
と言ってるのに、軽く見られているんです。

言葉が通じない。
それも1日中通じない。
勉強についても理解できない。

そんな中にいることがどれだけ苦痛か。
どれだけ将来に響いてくるか。

身を持って経験しなくても、想像はできるはずです。

「学校も努力してるからいいいだろう」という今回の判決。
僕の身の回りで直接聞いた、「日本語対応手話でわかってるので大丈夫です」という言葉。

これはどうにもやり切れません。
2016年から自治体は合理的配慮の提供が義務となってるんですよ。
2022年には情報アクセシビリティ法を施行されてるんですよ。
無視ですか?
行政が無視ですか?
条例も守らず、法律も守ってないじゃないですか。
いんですか?それで?

なかなか社会課題というのは、自分事としては捉えにくいものです。
でも、裁判官、難聴児に関わる先生たち、教育委員会、発達教育センター、そういう人たちは、せめて想像できる人であってほしいです。

裁判官、難聴児に関わる先生たち、教育委員会、発達教育センターの人たち、あなたが小学生だとして、いきなりインドネシア語しかしゃべらない先生が担任になったらどうですか?
それと同じことなんですよ。

インドネシア語で授業やってるからいいだろう。
ジェスチャーも入れてるし、インドネシア語の文字も入れてる。だからいいだろうって言われてるのと同じなんですけど、それで納得できますか?
「日本語で授業やってください!」って猛抗議するんじゃないですか?
なぜ、手話だと、外国語でいいだろうってなるんですか?

日本手話にとって、音声日本語は外国語です。
同じように日本語対応手話も外国語です。
よくも「一定のコミュニケーションを取ることは可能」だなんて言えるなと思います。

想像力の欠如も甚だしいと思います。

じゃあ、あなたが日本手話と一定のコミュニケーションをとってみてくださいよ。
日本手話の授業を受けて、勉強の理解が進むか、細かいコミュニケーションが取れるかやってみたらいい。
それで、できたら今回の判決も僕は認めますよ。
絶対できないから。

何でわかってくれないんでしょうね。

手話じゃなくても「聞こえづらい」ってことは、なかなかわかってもらえない。

福岡県では、要約筆記をつけたいと言ったら、UDトークを使ってくださいと言ってきました。

使える時は使ってますよ。
でも、誤変換が必ずありますからね。

授業なんかで誤変換があったら情報を把握できないわけです。
また、周りに音があったり、音自体が悪かったりすると、文字変換できないこともあります。

「音声文字変換アプリを使えばいいじゃない」
で、済まない時もあるんです。
アプリが全てを解決はしてくれないんです。

こういうことがわかってくれない。
こういうことが積み重なっていくんです。

なぜわかってくれないんですかね。

本当に、難聴って、ここがいつもわかってもらえない。
僕だって完全にはわかってません。
完全にはわかってないと言い聞かせていますし、実際そうだと思います。
でも、だからこそわかろうと想像するんですよ。
そして、本人から話を聞きます。

本人の話を聞いて、なぜわかってもらえないのか。
話はわかるけど、人がいないんだ、お金がないんだとかはあると思うんですよ。
じゃあどうしようかと、そこで一緒に考えたらいいじゃないですか。
それが求めている事なんです。

札幌ろう学校の件は、詳しいことはわかりませんけど、求めているのは、日本手話で授業を受けたり、先生と話したりすることのはずなんです。
そこをじゃあどうするかと、学校側が、道が、教育委員会が、一緒に考えていけばいいだけなんですけど、本当に他人事で何の感情も持ち合わせてないような答えもよく聞きます。

何でそういう関係者が他人事でいられるんですか?

そこが本当に悲しいし、だから、難聴の理解が進んでないんだろうと思うわけです。

今すぐそこまではできない。
じゃあ、どうしたらいい?
まずできることは何?

この会話ができませんか?
この会話がしたいだけなんです。

この会話ができれば、何らかのフォローへはつながると思うんです。
他人事じゃなく、関係各所の方々、一緒に考えましょうよ。
あなたたちの力が必要なんですよ。


札幌ろう学校の件は、控訴を検討するとは書かれていましたが、どうなるかはわかりません。

でも、日本手話で授業を受けたいという目的につながる建設的はアクションはできたらいいなと本当に心から思っています。

難聴の理解の浸透、「どうすればいい?」という建設的なアクションへつながる行動、これらを生み出せるような働きかけをぜひ作っていきたいなと思っています。


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