声を上げていいんです。声を上げた方がいいんです。
皆さん、こんにちは!
岩尾です。
先日、手話べり会などを企画するFUNTIMEさんに呼んでもらい、難聴がわかるアニメ「なんちょうなんなん」のこと、そこから言葉のかけはしをなぜ作ったのかなどのお話をさせてもらいました。
今回一番話したかったのは、子ども向けの難聴理解講座を無料でやってるんですけど、難聴の子を持つ家族からの依頼がほとんどないということです。
つまり、一番身近な難聴の子を持つ家族がそれほど必要性を感じてないととれるわけで、ここが、古くから難聴理解が広がらない大きな一因でもあると感じて、ここをいろんな人に知ってもらいたいなと思ったんです。
こういう言い方をすると、依頼をしない人を責めているかのようになってしまいますけど、責めているわけではなく、一番身近にいる家族の認識でさえ、知らず知らずのうちに子どもに負担を負わせる結果になっている、
そんな空気が作られていることが問題だと感じています。
なぜ、難聴講座を依頼しないのか?
聞いた話などから推測すると大きくはこのような理由ではないかと思います。
この中で後半の2つに今日は注目してみます。
この2つは、「声を上げない方がいい」という結果に結びついています。
これこそが、難聴理解が進まない大きな要因の一つだと思うのです。
謙虚さ
というと聞こえがいいですが、これは断じて謙虚さではありません。
難聴である子どもが、学校生活を過ごしやすくするには、絶対的に声を上げる必要があるんです。
なぜなら、学校の先生は聞こえない子どもへのコミュニケーションの取り方はほとんどの場合知りません。
これは先生が悪いんではなく、そんな勉強はしていないので知らなくて当然です。
だから言う必要があるんです。
小学校入学後は、子どもは1年生です。
1年生が合理的配慮のお願いを先生には到底伝えられません。
ここは親が言うしかないんです。
ワガママではありません。
優遇しろといってるんじゃないんです。
こっそりテストの範囲を教えろとか言ってるわけじゃないんです。
スタートラインに並べてない子どもに対して、少しでもスタートラインに近づけるためには、声を上げる必要があるんです。
そうしなかったら?
子どもが困るんです。
子どもがきつい思いをするだけなんです。
でも、子どもは、生まれたときからこうなので、困るともきついとも思わないことが多いです。
実際に、難聴の子は、小学校に上がった後は、学校から帰ったらすごく疲れてたという話はよく聞きます。
自分は体力がないなあと思ってたという人もいました。
実際疲れてるんです。
でも、聞こえないから疲れてるとはわからないんです。
なぜなら、聞こえた経験がないからです。
それが普通と思ってるからです。
でも、普通じゃないんです。
疲れるだけでもありません。
配慮がないとヌケモレが必ず発生します。
そのために、勉強でわからないところも出てきます。
後々困るのは、子どもなんです。
だから、親が声を上げておく必要があるんです。
声を上げると言っても、別に怒鳴り込むわけではありません。
文句を言うわけでもありません。
普通に、「聞こえないからこうしてほしいです」とお願いするだけです。
もっと効果的にするには、「アニメで知ろう!難聴講座をやってくれませんか?」と学校に依頼するんです。
学校に言う前に、僕に相談してもらってももちろん大丈夫です。
ただ、現在は、これを言う人が非常に少ないんです。
声を上げる人が非常に少ないんです。
声を上げないで、みんなと一緒にやった方がいいと思ってるのかもしれないし、そうであってほしい、みんなと同じにやれていると思いたいのかもしれません。
でも、聞こえないんです。
何のフォローなく、聞こえる子と同じには、情報把握もコミュニケーションもできないんです。
これは別に悪いとかそういう類のものではなく、単なる事実です。
同じじゃないから劣っているなんてことももちろんありません。
人はみな、誰も同じではありません。
さて、FUNTIMEは、普段、手話でのおしゃべりをしているようです。
通訳士はつけていないとのことで、わからなかったら聞こう!
通じなかったら文字でもジェスチャーでもわかるようにコミュニケーション取ろう!というスタンスのようです。
そこでわからなかったら、言葉がわからないという体験もできるし、そうやって、お互いに声を上げられる場を作っていきたいという感覚を感じました。
主催者の方が言っていることをもとに、僕が感じたことです。
何と・・・・
最近思っていたことと、この場のコンセプトが重なったんです。
そう。
みんなが声を上げられる場所を増やしたい。
そう、主催者は言っていました。
ここなんですよ・・・
ここなんです!!
聞こえない人が、フォローのお願いをする
聞こえない子の親がフォローのお願いをする
これを言うのがはばかれる空気が現状あるんです。
ちなみに、僕にはありません。
ないんですけど、僕でもなかなか言いにくいという時はたまにあります。
何でしょうね?
この空気というやつは。
あとは、聞こえない人からすると、何度も何度もフォローをお願いして、何度も何度も断られたから、もう頼まない。そんな嫌な思いはしたくないというケースもあります。
これは、強制的に声を上げれないようにされてしまったということになります。
何で声さえ上げれなくなるんでしょうか?
何でそんな空気にされるんでしょうか?
何でそんな空気に自らするんでしょうか?
前回も書きましたけど、そこまでこの世界は歪んでしまったということでしょうね。
今回のイベントの会場となった福岡LIVLABのオーナーと、ちょっと話しました。
僕の話に共感してくれて、いろいろ話していると、すごく僕も惹かれる話がいっぱいあって、それこそ、前回書いた、みんなの冷蔵庫の発案者の高校生の言葉を伝えたんです。
「こんなことを高校生が考えなくていい社会になることが理想だ。
こんな冷蔵庫使わなくて済んで、この場所が単なる憩いの場になることが理想だ」
という話ですね。
これにはオーナーもすごくうなずいてくれて、
「今は、みんな自分のことで精一杯になってて、めちゃめちゃ優しい人しかわかってくれないようなところがありますよね」
と言われていました。
まさにそうなんだろうなと感じました。
世の中の法律や規則は、悪い奴が悪いことできないような規制が入ってて、それが、真面目にやってる弱い立場の者を蹴たくり回すようになってるものもあります。
なんかおかしいですよね。
弱い立場の人がホップステップジャンプできる仕組みこそが必要じゃないですか?
インボイスとか、狂ってるとしか思えません。
どこまで頭がおかしくなったらあんなクソなことができるんだろうと反吐が出ます。
お金が入ってきた人は、多くはこうなってしまうんでしょうか。
大きく歪んでますね。
でも、愚痴ばかり言ってても始まりません。
話を元に戻しましょう。
声を上げることは自然で普通のこと
声を上げ合える風土をつくっていかなければいけない。
そう強く感じます。
自然に普通に声を上げ合うこと。
自然に普通に声を上げること
普通のことなんですよ。
このケースで黙ることは美徳ではないです。
子どもの首を絞めるだけ。
自分の首を絞めるだけ。
声を上げていいんだ。
声を上げた方がいいんだ。
となるにはどうすればいいか?
ここが、肝になるなと感じています。
変わらず、コツコツ積み上げます。
頑張ります!
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