手話か、音声日本語か
みなさんこんにちは!
岩尾です。
手話か、音声日本語か。
生まれて間もなく聞こえないとわかった場合、親が、手話を母語とするのか、音声日本語を母語とするのか決めなければいけません。
もちろん、生後数か月で未来を完全に決めるわけではなく、経過を見ながら決めるのですが、
その時々で、どうするかを、まずは親が選択することになります。
悲しいことに、一方が一方を攻撃することも見られますが、この選択、当然、どちらが良いとか悪いとかの問題ではありません。
我が家も難聴の子を持つ親として、一方を選択しています。
我が家は、今のところ音声日本語を選択しています。
選択理由は、子どもに多くの可能性を残したいと思ったからです。
現在の社会は、当然ながら音声日本語でコミュニケーションを取る人が多いわけです。
だとすると、子どもも、音声日本語でコミュニケーションが取れるに越したことはないと思いました。
ただ、だからといって、聴覚が使えてないのに無理やり音声日本語を使えるようにとは思っていません。
聴覚が使えないなら手話にするべきだと思っています。
それは、言語をしっかり身に付けないと思考力も発達しないからです。
言語は当たり前ですが重要だと思っています。
じゃあ、0歳児でスケールアウトだったらどうするか?
手話か人工内耳ということになるでしょう。
おそらく、何も知らない状態でそうなったら、医者から人工内耳を勧められるはずで、何も知らないとしたら、人工内耳を選択しているような気がします。
でも、今の知識を持っていたらどうするか?
実は、これはなかなか答えが出ていません。
言語を身に付けることは何よりも大切だと思っています。
そして、子どもの可能性を考えると、日本に住んでいるなら、音声日本語ができた方がいろんな可能性は拡がるだろうなと、今は正直思っています。
本当は、手話でも可能性が広がる社会になることが一番ですが、残念ながら現状はそうではないですよね。
うちの娘は、幸い、補聴器でしっかりと聴覚を使えるようになったので、今のところは補聴器で生活しています。
プラス、手話もできた方が楽に会話ができるので、少しずつ手話も会話に入れていっているところです。
なので、日本語対応手話ですけどね。
この先は、本人が手話にしたいと思えば手話にすればいいし、人工内耳にしたいと思うなら人工内耳にすればいいと思います。
たまたまですが、本人の意思で選べる状況にはできたかなと思っています。
これが僕の考え方です。
ですので、音声日本語習得の可能性があるのなら、音声日本語に挑戦した方がいいと以前は思っていました。
スケールアウトで人工内耳を選ばず手話を選ぶのは一つの選択。
それは人工内耳にしても聴覚が使えるようになるかはわからないというのもあるし、
その他のリスクを考慮してどうするかなので、そういう選択は理解できます。
でも、補聴器で聴覚活用できるのに手話を選ぶという選択は、僕には理解できませんでした。
もちろん責める気持ちはないのですが、その選択が子どもにとって最善となり得るのか、見えなかったのです。
聴覚は、2歳ぐらいまで使わないと使えなくなってしまいます。
もちろん、手話も最初に覚えた方が覚えやすいんですけど、いろんな可能性を残したいという考えなら、まずは聴覚を使えるようにして、それから手話も覚えていけばいいじゃないか。最初から手話にしてしまうと、せっかく使える聴覚が使えなくなってしまう可能性もある。
それは子どもの可能性をつぶしてしまうんじゃないか?
こう考えていました。
それが、最近、この選択の本質の一つに気づきました。
(違う考えももちろんあるはずです)
聞こえない子は、どう考えても手話を使った方が楽に会話ができます。
つまり、手話で楽にコミュニケーションが取れるし、思考力が発達します。
子どもの「今」のQOL(生活の質)を高めることを第一に考えているのかなと思いました。
そう考えると、聴覚を使えるんだけど、手話を優先させる選択も納得がいきました。
別に僕が納得するしないはどうでもいい話なんですが、
その選択の価値というか、本質というか、良さがあるはずで、それを僕なりにつかみたかったんです。
ですので、岩尾が勝手に分析しただけの話ですが、
音声日本語を選択する人は、子どもの未来の生活の質を重視している。
手話を選択する人は、子どもの今の生活の質を重視している。
そして、両者ともそうですが、
音声日本語を選択しているからといって、子どもの今の生活の質はどうでもいいとは思ってないですし、手話を選択する人も、子どもの未来の生活の質はどうでもいいと思っているわけではないんです。
僕も、未来を重視したんですけど、今も過ごしやすくできるように接してきたし、今もそうしています。
ただ、やはり子ども本人はきつかったことがあっただろうと思います。
なかなか意思疎通できなかったこともあったでしょうし、今もあるでしょう。
でも、それで良しとは思ってなく、より過ごしやすい状況を目指しています。
手話を選択した人も、未来はもっと手話の人も仕事などの選択肢を拡げたいと思っているはずです。
現状ではかなり狭いのですが、それでいいというわけではなく、何とか広げたいと思っているはずです。
これに気づいたとき、そうか、だから一方が一方を攻撃してしまうことがあるんだなと、原因も少し見えてきました。
手話か音声日本語かというのは、実は2者一択という並列のものではなく、
全然違うジャンルのものです。
例えが適切かはわかりませんが、
ハンバーグが好きか?スキューバダイビングが好きか?
こういう関係性のものだと思うんです。
これは、比べてどちらがいいとか言えるものではないですよね。
ハンバーグか、イワシの塩焼きかとなれば、同じジャンルで比べられます。
とはいえ、ハンバーグとイワシの塩焼きでどちらを選ぶのが正解とかはありませんが、好みで議論は進むでしょう。
そして、好みの問題なので、別に一方が一方を責めるとかはないですよね。
では、ダイビング好きな人が、ハンバーグを好きな人を責めたとするとどうでしょう?
ハンバーグ好きな人は、「なぜそんなことを言われなきゃいけないんだ?」と思うでしょう。
自分はハンバーグが好きだからハンバーグ定食を選んで食べてるのに、なぜおまえはダイビングをしないんだ、ハンバーグを食べてる暇があったらダイビングをしろ言われたら、腹も立つでしょう。
一方、ダイビング好きな人も、なぜこんな絶景のダイビングスポットにいながら、ハンバーグ定食だけ食べて帰ろうとするんだ?意味がわからん!となって、物申したくなるのかもしれません。
でも、これ、議論は交わらないんですよね。
当たり前です。
ジャンルが違うからです。
手話か音声日本語かというのは、こういう議論になってるんじゃないのかなと思うんです。
未来の生活の質を重視している(が、今も過ごしやすくなればいい)
今の生活の質を重視している(が、未来も選択肢が広がるといい)
こう整理すると、どうでしょうか?
お互い尊重し合えないでしょうか?
まあ、それでも理解できないという人もいるでしょうけど、随分お互いのことが見えてくるんじゃないかなと思うんですけど・・・
いかがでしょうか?(笑)
もちろん、違う考え方の方もいるはずですので、よかったら、違う考え方も教えてください。
選択肢がある以上、自分と違う選択をする人もいるわけですが、
同じ聞こえない、聞こえづらい人、その家族同士で、責め合うというのは、非常に悲しいなと思うんです。
なぜその選択をするのか理解できないということはあっても、責めるというのは違うと思うんです。
もちろん、僕もあまり人間はできていませんので、理由によっては責めたくなることもありますが・・・(苦笑)、選択の本質が見えてくれば、尊重する気持ちも生まれやすいはずです。
あくまで、僕の考えであって、手話を選択した人、音声日本語を選択した人全てがこの2つに分かれると言っているわけではありません。
ただ、こう考えたときに、「ああ、やっぱりみんな子どものことを本当に考えてるんだな」とやさしい気持ちになれたので、参考までにのシェアです。
まさに、どちらが良いとか良くないではなく、何を重視するかによっての選択だなと思います。
ご参考まで。
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