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【陽の人生】人生3度のお絵描きブーム①

 タイトルを【陽の人生】としているのは、私には同時に【陰の人生】とも言うべき、裏の人生もあるからです。お絵描き、という趣味に関しては私は間違いなく【陽】を歩んで来た自負があるので、このタイトルにしました。
 【陽】と言っても、栄光のお絵描き人生だったというわけではありません。ただ、絵を描いている時だけは、私は多分、素の私でいられたのではないかと思うからです。

 現在アラフィフの私が「結局は何にもなれなかったなぁ、もっと頑張れば何かになれたのかなぁ」と、自戒と反省、半人生を振り返る感傷と心の整理を兼ねて、徒然に書いていこうかと思いました。
 誰々に読んで欲しい、と積極的に思うほどのものでもないのですが、誰かが暇つぶしに読んで思いがけず何かの足しになれば嬉しいかな、と思いました。

 終活みたいなもんです。私はこうやって生きてきた、みたいな。歳取ると誰もが書きたくなるようですね。昔、うちのじいさんも自分の人生、自費出版してたわ〜。血だなっ。

はじめに

 人によっては、物心ついた時からずっとお絵描きしてて気が付いた時にはそこそこ描けるようになっている、という人もいるでしょう。

 ある程度の年齢になってある日突然描き出して、最初からある程度上手かったり、短期間でメキメキと上達してしまうタイプもいるのですね。老舗掲示板などには多い気がします。

 そして、そのどちらであっても、人生の中のターニングポイントで描かなくなってしまう人、いると思います。

 私は前者のタイプで、そうでした。

 なので、お絵描きをお仕事にされたり、同人活動を続けたりして、連綿と描き続けておられる方には本当に尊敬の念しかありません。

 私自身は、絵を描いている期間とそうでない期間が、わりと空いているタイプです。

お絵描き第一期

 記憶としては、3歳の頃にはもうしっかりと「お絵描き」をしていたと思います。絵や工作が大好きで、大人しく黙々と創作活動に没頭する子供だったようです。
 それから、小学生中学年くらいまではいわゆる「女の子」「家と草原」「動物」などをモチーフにした少女特有の絵が主でした。

 4年生くらいの頃に仲良くなった3人組で「ノートに1Pずつ漫画を描いて次の人に回し、回された人はその続きを描く」という交換漫画遊びを、中学1年生くらいまで続けました。
 この頃、クラスの子に依頼され「その子を主人公にした漫画を描く」ということもしました。らくがき帳の紙にサインペンで描き、ちゃんとベタを塗りトーンを貼って仕上げ、コピーして製本してプレゼントしました。今思えば赤面の至りですが、懐かしい思い出でもあります。

 中学生になると同人誌というものを知り、色んな漫画を描き散らしてはコピーして製本して地元の小さな同人イベントに繰り出しました。クオリティは当然低くほとんど売れませんでしたが、お小遣いをほぼその活動に注ぎ込むほど熱中しました。
 オリジナルの長編漫画や長編小説も大量作成し、友達に読ませる苦行を強いました。(いや、楽しく読んで頂いていたに違いない、と自分を慰めておきます)

中学生時代の遺物 奥付は1990
この頃は鳥山明にハマり散らかしてました
読み返して自分だけが楽しいです
一緒にやってた友達も今は音信不通

 高校はデザインの学校へ進み、自分は絵を描き続けて生きていくんだろう、と、漠然と思いながら、中学生の頃と同じく、二次創作もオリジナルも描き散らしては友達と楽しい高校生活を送りました。

 楽しい高校生活ではありましたが、中学生の頃までと違い、周りはほぼ全員が絵を描ける子、自分のレベルも思い知ります。
 レベルとしては「中の上から上の下、決して下手ではないけれど特別上手と言うほどでもない」というところでした。
 中より上の位置にいると自己分析する理由は、そこそこ描けた上で課題をちゃんと期間内に仕上げて提出する能力はあったし、先生方にもその点を評価して頂いていたからです。(実際、クラス順位も約40人中10〜15位くらいでした)

 私は、多分、絵を描く仕事をそこそこやっていける、と思っていました。

 この頃はまだ、漫画家やイラストレーター、デザイナー、まかり間違って小説家など、なろうと思えば何にだってなれると思っていました。

 宗教2世であることを除けば、未来を夢見る将来有望な若者でした。
 そしてその、宗教2世で自身もそこそこ熱心に活動する、こちらでも将来有望な若者であったことが、私にとっての不幸(あるいは幸福)だったのです。

 折しも世紀末、世間がざわめいている時代でした。

第一期末期

 家庭と宗教との折合いから、私は大学進学を選択せず、デザイン事務所や広告代理店といったデザインがメインの仕事になりそうな就職先も選択せず、建築系のお堅い会社への就職を果たします。
 そこではいわゆる「完成予想図」的なイラストを作成したり、図面をトレースしたり、それなりにやり甲斐を持って仕事出来ていました。

 同人活動としては、学生時代よりも大変にはなったものの、オフセット印刷で発行した同人誌を「ファンロード」というアニメ雑誌の同人誌紹介コーナーに送って掲載して頂く、という僥倖も二度果たしました。
 イベントに行く暇はなかなか無くなったものの、こうして通頒で捌き抜きました。

 私の第一期ピークだったと言えましょう。

 この頃、私は楽しかった会社員を辞めました。理由は、大きくは宗教です。

 第一期の終了時期は緩やかだったため定かではありませんが、その頃、最後に出した同人誌は「ファイナルファンタジーⅥ」のケフカ様(ラスボス)の本でした。
 1994年発行。ここを、第一期終了の区切りとします。

当時ハマったのはケフカ様
今でもリメイクしたい漫画です
その内しようかなぁ

第一期崩壊

 財政基盤を失った私は「イラスト」を商品にし始めます。「自称」イラストレーターです。

 時代は、インターネット黎明期でした。

 子供の頃になりたかった「イラストレーター」の看板を掲げていました。幸いにも、依頼してくださる方もいらっしゃいました。とある文芸誌での挿絵師として、末席に名前を並べさせて頂くことも出来ていました。素材集のカットなどのお仕事も請け負わせて頂いていました。

 とは言え、1カット数千円、とても自活出来るほどの稼ぎにはなりませんし、時給にしたら数百円、機材や仕事場という名の一人暮らしのアパート代を考えると完全なる赤字でした。しかも、仕事をすればするほど赤字です。もちろん、他にアルバイトに行っていました。

 得意なことを仕事にしていたはずですが、とても苦しかったし、努力もしませんでした。いわゆる、やっつけ仕事です。

 この時代、厳密に言えば「絵は描いている」状態ですが、決して楽しんではいませんでした。広義の意味で、私はこの頃、すでに筆を折っていたのです。

 理由は多岐に渡りますが、1つにはやはり宗教がネックとなりました。
 これについては【陰の人生】として別にカテゴリを設けたいと思っています。

 やっつけ仕事でやる仕事が続くはずもなく、私は苦しさのあまり、とうとう全てをシャットダウンして逃げ出しました。

 逃げ出した先は「祖父母の介護」でした。20代後半の頃でした。

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