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KOTO'S LIFE STORY 第5話 右上腕骨骨折

やはり夏のクソ暑い日にはろくなことがない。

4歳の夏の出来事。
僕の歴史の中でいくつもあった最悪の出来事の中のひとつめが。

それは1975年の夏の日。
その日の福島県石川郡石川町は暑かった。

夏休みに大好きだった祖母の家の長い廊下でモップがけを手伝っていた時のこと。
モップがよく滑る床だったし褒められるので勢いよく走り回り得意になっていた。

そしてその勢いのまま縁側に転落。

不運にも縁側によくあるサンダルなどを置く沓脱ぎ石に腕を打ち付けた。

それだけならいいのだが持っていたのは柄のついたモップ。
そのモップの柄が右腕に巻きついたままだったのだ。

右肘を支点として捻られたような状態で石に落ちた僕の右上腕骨は簡単に折れた。
同時に橈骨神経も断裂してしまった。

その瞬間のことは44年経った今でもよく覚えている。

痛い思いは忘れない。

落ちる瞬間のことも、なんとなくスローモーションになることも。

その後僕は泣き叫ぶ。
そこにいた叔母(母の姉)は逆に曲がってしまった僕の腕を見て気が遠くなったそうだ。
僕を抱えて近くの医者に飛び込む。

手術室に運ばれ整復が始まった。

しかし下手くそだ。
全然整復ができない。
僕は痛くて痛くて叫び続けた。
いつの間にかタオルか何かで目隠しをされて目の前が真っ暗になっていた。

最悪なことにそこは町でも有名なヤブ医者だったのだ。

みるみるうちに腕は腫れ上がり倍くらいに膨れてしまったようだった。

そのうち「すみません、うちではどうにもならないので郡山の病院に行きましょう」と医者が言った。
できないのなら最初からそういってくれよ(苦笑)

結局そこから1時間くらいかけて郡山の太田病院という大きな総合病院へと僕を担ぎ込んだ。
なぜか救急車ではなく叔父の車で。

郡山の病院ではもちろん即入院、即手術。

小さな体でひどい骨折をして整復失敗からの車で1時間の搬送。
よく気を失わなかったと思う。
その道すがらのこともところどころ覚えている。
叔母に抱えられながらずっと叫んでいた。
見えているのは車の天井だけ。
痛みが伴うとこんなにも記憶力が増すのか。

結局手術後僕はそのまま2ヶ月ほど郡山の病院に入院した。
父と母も次の日には埼玉から病院に駆けつけた。

その日は偶然にも腕の良い外科の先生がいてくれた。
名前は失念してしまったがこの先生がいなければ僕の右腕は今でも動いていなかったはずだ。

手術台に寝て麻酔をされる瞬間の光景が今でも忘れられない。
眩しいライト、あわただしく動いている人たち。。。
口元にマスクを当てられて…という瞬間に麻酔が効いた。

手術は無事に成功したが腕が動くようになる保証はない。

断裂した神経は運が良ければくっつきますと言われた親はその可能性に賭けた。
大人ならもう諦めなくてはいけないような状態だったが子供の神経は成長が早い。
ニョキニョキ伸びてくれれば神経がくっついてまた脳からの信号が手の先まで送られるはずだ。

その夏右手はずっとギプスで固定されたままだった。
夏だったのでギプスの中はあせもができていて痒かった記憶しかない(笑)

そんな状況でも良かったこともあった。
それは福島で入院したので家には帰れない。
つまりしばらくは保育園に行かなくてもよかった。

4歳の愛くるしい僕(笑)は入院中は同室の大人たちから可愛がられた。
相部屋の目の前のベッドにいた何らかの原因で手首から先を切断してしまった手の無いおじさんには特に可愛がられた。
売店でジュースを買ってもらったりおもちゃを買ってもらったり。


写真の僕の顔をみるとよくわかる。
目がつり上がっていない。
優しい顔をしている。
案外病院の中の大人の世界が心地良かったのだ。
関わる人によってこうも顔が変わるんだな…


その後退院してリハビリも頑張ったものの1年以上腕や手は動かなかった。
そのおかげで腕は細くなってしまい友達と比べるとかなり細い腕になっていた。
それもまた自信を無くさせるには十分な事実だった。

両親は僕の右腕がそのまま動かなくなると悲観していたようだった。

<つづく>

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