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子どもが独り立ちしたとき、日々をごきげんに生きられるよう、親ができること

もうこんなことを考えないといけないのか。
わたしがこの1年ほどずっと悩んできたことで、なかなか書けなかった。
まだ途中(というより始まったばかり)で、葛藤ばかりだから。長女、いや娘たちの進路のこと。小学校に入学する前に、やっぱり色々なことを考える。

親ができることは何か。
幸いなことに夫婦の「原理原則」は一致していた。
「本人が好きなことを見つけ、幸せになる道を選べるように」
ただ、それは甘くない。

一見、教育パパママと呼ばれそうな人たちも、いろんな余分を削り落としたとき、それこそ自分がもう今日死ぬ、とわかっていたら。
子どもに願うことは、子どもの幸せ、少しでも笑顔でいてくれることなんじゃないか。でも、笑顔で居続けることは簡単じゃない。人は一人で生きていない。
世の中でなるべくごきげんで過ごし続けるには、リアルをいうとお金も必要で、そのためには心と体の健康がいる。健康のためにもお金がいる。

「この世で生きる」というすばらしいギフトとも言えるけど、生まれた故の困難も経験するとも言える。子どもたちに、一応の責任者として、親としてできるだけのことをしたい。

立ち返って、自分はどうだっただろうか。
わたしの親族は、「教育」だけは、親が子どもに与えられる無形の資産だと考えていた。その上で、本当に別にいい大学に行ってほしいなんて思っていなかった。

だけど、結果として、たいした目的もないので、とりあえず進学校に進むとそのベルトコンベアーに乗って、よほど何か好きなことが見つかっていないかぎり、大学、しかもできるだけ難しい学校を目指すことになる。その時点で、一生かけたいなあ。と思うほど好きなことがある、なんて無理な相談だよ。

わたしの場合、気がつくと日々の試験が目標になり、ドライに比べられ、自分のポジションを理解、まあまあの難関大学に行き、就職した。でも、そこを出発点に色々な出会いがあり、仕事だけじゃない仲間も素敵な仲間に出会えた。

MBAとって直接的に役に立ったことは一度もないけど、しんどかった勉強を乗り越えるなかで、話を聞いてくれる友人はできた。在学中に出産をはさんだ同級生も他にいて、それはありがたかった。

学生時代から漫画を読む方が好きだし、お酒を飲みに行く方が楽しい。なんなら、眠りたい。だけど、我慢して深夜早朝、勉強していた。学生時代は大っ嫌いな数学にかけた時間は長かったし、大学院ではファイナンスの授業がつらかった。ただ、大なり小なり、その「我慢」の経験はみんなあるだろう。

我が子にもどる。
もし、子どもがただ笑顔でいる、親が守ることができる小さな世界のままで生きていてくれたら、と、ただ目の前だけを見たら願ってしまう。

少なくとも、自分が子どもを叱ったり、傷つけたりする存在になるのは、本当に辛い。やりたくもない勉強とか、究極、やらせたくもない。
できたら、ずっと甘やかしていたい。家族だけの箱庭で。

でも、だめなんだ。親からほっといても離れる時期はくるし、離れたいと思うし、また離れなければならない。親は先に多くの場合死ぬし、死ななくても体が動かなくなるかもしれない。その前に学校に行ったり、遊びに行ったりするなかで、家だけで支配できない世の中にはかならず晒される。

そのとき、しんどいことがあっても、乗り越えて幸せに生きられるようにするには、どうすればいいのだろう。何より、本当にやばい、しんどい時に、「逃げる」または、「違う道も選べる」ゆとりを残すにはどうすればいいだろう。

わたしは、「失敗しても自分は大丈夫」と思える気持ち(自己肯定感でもいいけど、言われすぎてこの言葉に飽きてしまった)や「お金」、そして、多くなくてもいいから心から信頼できる人たち。

その「自分は大丈夫」の経験を積むにはどうすればいいだろう。
親の力がまだなんとなく大きいうちに、子どもがちょっと背を伸ばしたら「できた」を積み重ねていける経験をできるだけ積む「機会」を作る、くらいにしか、思いつかない。その中で勉強はしばらく逃げられない。

人生って難しくて、しなくて良い苦労はしなくていいはずなのに、本当にほしいものに手を伸ばそうとすると、やっぱりそれなりの頑張りが必要になってしまう。その頑張りに必要なMPは、体力みたいなもので、きたえられるものでもある。そのMPをきたえるタイミングは、意外に早く訪れてしまう。
それが、「自分ができる」という経験値だ。

そこまで考えて、子どもに私たちが与えられうる「勉強のコツ」(義務教育期間中は逃げられない)や、楽しい機会を、お互いにちょっと(いやだいぶ)嫌な気持ちになっても、根気よく伝え続ける必要があるみたいだ。

正直、子どもがやりたくもないドリルとか、書き取りとかをやることになるけど。

日本で生きてりゃ、学校に行くし、必要最低限、いつかやれるようになるケースが多いだろう。それはそう。でもそれまでに、「自分はできない」の経験を積み重ねることになってしまう。それが苦しい。

本当に必要なのは、字が書けることでも、数学が解けることでもなんでもなくて、「自分はできる」と人に言われるんじゃなく、自分は「(これは)人より得意なんだ」と信じられる何かをいくつか見つけること。そうして、苦手なことは多いけど、やりたくて好きなことは、がんばれば結構いいところまで手が届く、と「自分が自分を」信じることができること。

悲しいが、ゲームだろうと漫画だろうと、娯楽と呼ばれそうなものであっても、案外、「これでやっていけるぜ」と思うまで頑張るには、まあまあの忍耐と努力が求められる。そのとき、「自分はこれを磨くために今は頑張る、頑張れる」と自分を信じられるかどうか。

この自分を信じる力(くわえて、それなりの客観視も必要なんだが)だけは、親でも最後は悲しいけど、助けられない。ただ、サポートはできる。

そのとき、「他の人よりもしかしたら下手かも」とへこみまくる経験の「やり方」を失敗すると、後々の人生で尾を引いてしまう。

現時点では、学校だってなんだって、今を楽しく生きる上での手段でしかない。
始まってしまった人生というゲームを、とにかく楽しく過ごすために。

そこまで考えて、やっぱり、親の根気も試されるけれど、できるかぎり、子どもの環境を整えよう。そう決めた。モヤモヤしてばかりで、葛藤することばっかりだけど。原理原則は「今を楽しく生きる」ために、努力すること。

ただ、手段と目的をはき違えることだけは、絶対に避けよう。
まとまりのない文章だけど、今、自分が思っていることに気づくために書いてみた。子どもに幸せな未来を考えると、親は、悩んでばっかりだ。

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