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読書日記(240525)〜「淳」「淳それから」/生涯、乗り越えることのできない理不尽

少し前、神戸連続児童殺傷事件の犯人「元少年A」の両親の手記を読んでいた。

ここにも書いたけど、少年Aの両親に対し、わたしはやや同情的だ。
「どこにでもいる普通の親」だと思った。一人の親として、この人たちに石を投げられるほど、わたしは立派な人間ではない。

一方、「淳」「淳 それから」は、殺された淳くんのお父さん、土師守さんの書いた手記だ。

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土師さんは、深い教養のある、器が大きな方だった。立派な人だ。
感情を抑えよう、しかし抑えきれない怒りが深い場所からにじみ出る、静かな文章がよけいに重い。

我が子を理不尽に殺されただけではない。言葉に尽くせないほどのひどい目にあっている。わたしは、もし我が子がこんな目にあってしまったら生きていられない。そのなかで耐える被害者遺族の思いが伝わってきた。


1.被害者遺族と加害者家族

「少年A」の両親の手記と、被害者の遺族の手記を近い時期にまとめて読んだ。
だから、読んでいる最中はどちらの側の気持ちにもたってしまう。

わたしは犯罪被害者の書いた手記、というものを読んだことがなかった。若い頃はむしろ、シリアルキラーと呼ばれるような、異常な犯罪者と呼ばれる人たちの方に関心が向いていた。

理由の一つは、恥ずかしいけれど野次馬根性に近いものから。嫌な言い方をすれば、どんな異常な精神なのかを覗き見したかったのだ。
もう一つは、引かれるかもしれないけど「自分だって何かきっかけがあれば、川の向こう側(罪を犯す)にいくかもしれない」と、思ったからだ。
常識でダメ、と言われていることをやったことは人生で数えきれない。横断歩道ではない道を横切ったことも一度や二度ではない(今はこわいからやらない、というより、怖くてやれない)。

ただ、子どもを持った今は、その気持ちは少し変わった。特に小さな子どもに関する事件があると、チャンネルを変えてしまうほど辛い。みていられない。その子の親の気持ちになってしまう。

そして、被害者遺族がこんなにも守られない立場にあることを知らなかった。
関連して、光母子殺人事件の被害者遺族だった、本村洋さんに密着した「なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日 (新潮文庫) https://amzn.asia/d/2skvHlv」も読み、驚いた。
理不尽に、突然に、最愛の家族を奪われたのに好奇の目にさらされ、過去に何かあったのではないか、など探られる。加害者の「家族」に罪があるわけではない。それはその通りだ。けれど、置いてけぼりにされた被害者遺族の気持ちは、どうすれば良いのだろう。

2.「あすの会」の存在〜闘うということ

土師さんは、マスコミの取材攻勢からすっかりメディア不信になっていた。
犯人が捕まれば写真を撮られる。コメントを求められる。
判決が出ればまた、写真を撮られる。
元少年が本を出版すればまた・・・

著書にあるが「願いはただ一つ。元の世界に戻して欲しい」(それは、当然殺された息子を返して ということを含む)という悲痛な叫びだった。

けれど、土師さんは静かな小さな幸せを見つめるだけでなく、「全国被害者遺族の会」に関わったり、メディアを通じて発信したり、自分が受けた理不尽を許さない、と、世の中を変革する方向に向かっていく。それは、本村洋さんもそうだった。

それは、自分の傷口を開くことになる。実名で、顔を晒して闘うこと。そっとして置いてほしい、と思う気持ちのほうが強いはずだ。もしくは、いっそ、もう死んでしまいたい、と。わたしも、娘や夫を理不尽な形で奪われたら、生きる希望を失う。それでも、犯罪被害者の遺族として、土師さんも、本村さんも、世の中を変えることが自分の使命だと思えたのだろうか・・・。

昔、犯罪被害ではないが、上司に言われたことがある。「人は、自分では受け止めきれない大きな理不尽に出会ったら、ほかの人と一緒に戦わなければ乗り越えられないことがあるんだよ」と。上司の経験からだった。

土師さんは、手記を発信したり、活動していくなかで、自分の考えを深く、深めていかれたのだろうか。絶望の向こう側を見た人の手記だった。

3.死刑制度のこと

死刑制度を反対する、という立場の人たちと、存置派、という立場の人たちがいる。死刑制度があるから、犯罪を抑制しているのだと。一方で死刑は、国家による殺人だという人もいる。

今回、「淳」や「なぜ君は絶望と闘えたのか」を読んで、死刑、という制度のもつ意味を考えている。

人の命を奪う、ということは、世界そのものを奪うことだ。
一人の人間だけでない。その家族の命をも奪う。

その重みを実感するのは、自分の命の限界を見つめた時なのではないか。
人は、命が有限なのに、つい無限だと思ってしまう。また、自分が生まれるときの奇跡は、親と、その場にいた医師や助産師しか知らない。
今回の出産で、自分の死のリスクも感じてしまった。なんとか、子どもと夫にちゃんと、大好きだよと伝えたかった。だから、その言葉さえ伝えられずに命を落とした人たちは、どれだけ無念だっただろうと思う。

わたしたちは、当たり前すぎて自分の生があることの奇跡を、実感できない。
自分の命が有限であることを痛切に自覚する。死刑制度は、そんな重みがある。
ちょうど、二人目の子どもを出産した前後に読んでいたので、余計に、命の重みを感じた本だった。





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