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【短歌と和歌と、時々俳句】16 稲妻の歌

 今日は燃えるゴミの日だ。数年前からゴミ捨てに次男と娘がついてくるようになった。往復5分ほどの間に行うごっこ遊びが楽しいらしい。
 道中では近所の人とよく会う。ほぼ全ての人が子どもらを満面の笑顔で見てくれる。それで僕もあいさつがしやすい。するとだんだん子どもたちもあいさつを覚えてきた。僕抜きで自分からもあいさつを言えるようになってきた。
 最近ではお向かいの子どもさんも僕にあいさつしてくれるようになってきた。こういう関係作りはとても楽しい。

秋風やブランコ横にビール缶

☆ ☆ ☆

 宵の間の群雲づたひ影見えて山の端めぐる秋の稲妻
日が落ちてから しばらくの間に
一群れの雲がわきあがる その雲を縁取るように
光が見えて
その光は 稜線を浮き上がらせながら ぐるりと山々を回っていく
その光は 秋の稲妻

玉葉和歌集 628 伏見院

 稲妻の語源は「稲」の「夫(つま)」。そんな男女関係を連想させる語だけあって古代の稲妻は恋歌に登場する。『古今和歌六帖』には「稲妻」という小題が設けられいくつかの和歌がまとめられているが、それらは全て恋の歌だ。そのうちの一首は『古今和歌集』にも入っている。

秋の田の穂の上を照らす稲妻の光の間にも我や忘るる

古今和歌集 548  読み人知らず

 あなたの事は一瞬だって忘れるものですか、と歌われている。その一瞬の比喩に用いられているのが稲妻だった。

 稲妻は男女関係を暗示するとともに、一瞬のもの、儚いものの代名詞的存在でもあったのだ。そこで稲や葉と縁の深い「露」と結びついて儚さを演出することもあった。

秋の夜に幾たびばかり照らすらむ稲葉の露に宿る稲妻

六百番歌合 329    藤原兼宗

 そうした詠まれ方の中で叙景的な稲妻の詠み方を探ったのは、兼宗歌と同じ六百番歌合に出詠した季経と家房だ。

左     季経
宵の間の月待つ程の雲間より思はぬ影を見する稲妻
右 勝   家房
夕月夜かげろふ宵の雲間より光をかへて照らす稲妻

六百番歌合 331  332

   冒頭の伏見院の歌は季経の歌に似ている。比喩的存在ではなく景色としての稲妻を詠む方法がきっとあり、伏見院の一首ははそうした詠み方の探求の末にたどりついたものだったのだろう。

 それにしても伏見院歌は季経歌と比べても景色の切り取り方がダイナミックだ。雲の間ではなく「群雲づたひ」と詠んだ。稲妻は雲から雲へ伝わっていくように次々と光ったのだろう。さらにその光は、雲が取り囲む山の稜線まで照らしていく。この遠く大きい景色は地球的とでも言いたくなるほどだ。
 名歌と呼んで差し支えない一首だろう。



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