1月18日 僕たちの喧嘩と俊成の片思い
妻と喧嘩した。
喧嘩は良くする。子育てに関わることだと譲りたくない気持ちが出てしまう。
だいたいの場合子どもらに諌められる。2歳の娘も「けんかはだめ!」と怒る。
ダメな親なのだと思う。
学校を嫌いだと言う君の目が見ている90年代の冬
『長秋詠藻』を開く。「ちょうしゅうえいそう」と読む。藤原俊成という、平安時代末期を生きた大歌人の家集だ。
憂き身をば我だに厭ふ厭へただそをだに同じ心と思はん(一八〇)
辛いことばかりの私の身なんぞ
私さえも嫌うのだ
さあ君も存分に嫌うが良いよ
私を嫌うという君の心だけでも
私の心と重なっていると思いたいから
「片恋」という題が用意され、歌った歌だ。片想いを想像し、歌う。
何と悲痛な透明感だろう。
恋をし、愛を求めたが得られなかった男の歌だ。
得られない理由を女に求めない。恋をしていることを曲げないからだ。報われぬと知ってなお、恋し続ける。女は理想であり続ける。理想の座に据えるため、男は「憂き身」の自分を「我」から切り離し、道化にすら変える。
道化の自分を女は嫌うだろう。
自分も、道化が嫌いだ。嫌うような道化を演じた。そうして道化の自分を嫌いだというただその一点で、女と気持ちが重なることを祈る。
破れようともただただ純粋に、一片の濁りもなく恋し続けた男の歌である。
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