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平安時代の恋愛とか結婚とか

0 はじめに

 工藤重矩『源氏物語の結婚』を読んで衝撃を受けました。そこで平安時代の結婚をテーマに、平安文学のいくつかを読み直し、日本史について多少学び直して分かったことを書き残しています。

 今後調べて増補・修正しながら、仕事のネタ元としていきたいなと思っています。
 なお、ここで対象としている時代は平安中期です。10世期から11世期半ばくらいまで。要するに摂関政治の時代です。

1  上位貴族の場合

 摂関政治が盛んだった時代、上位の貴族、すなわち公卿に該当するのは藤原北家と臣籍降下した源氏がほとんどでした。これらの人々はそれぞれがスーパーヒーローですので、彼らにおける一般的な恋愛の結婚について言語化するというのも、平均的なアメリカ大統領のあり方を語るというのと同じくらい乱暴なことだとは思います。ですが、そうは言っても何とか言葉にしないと中高生にはつたわりませんので、やってみます。基本は男の子視点です。

 彼ら公卿の家に生まれる男の子は、生まれると両親または母親の家で育てられます。両親が同居している場合でも、育てるのは母親とその両親でした。乳母をやとって、ということですが。そして7歳くらいになりますと父親が認知する儀式が行われまして、そこで初めて公的に「この子は誰々の息子である」という認定が示されることになります。
 その後は10歳くらいまで、実家に住みながらも宮中で過ごす時間も与えられたようです。子ども時代に宮中で時間を過ごすのは童殿上と呼ばれ、公卿や殿上人に顔貌、立ち居振る舞いや教養の度合いなどを見せる機会にもなっていました。実家にいるときには父親から漢文などを教授されます。
 その後12、3才くらいになりますと、成人の儀式が行われ、宮中での仕事を与えられます。「初冠」とも呼ばれます。その時に与えられる位はざっくり言うと「五位」。五位には従五位下から正五位上の四段階がありますが、その一番下の従五位下が多かったようです。五位以上は殿上人=貴族。つまり公卿の子どもは現代の中学生くらいの年齢で、一人前の貴族の仲間入りしたんですね。父親が偉くてラッキー♪となるのはこの時です。「あなたのお父様は偉い方なのですから、あなたもお父様のようになるためにはたくさん勉強しましょうね」とか言われて、実感も無いままがんばんべえやと生きてきた少年が、ここで初めて父親パワーを感じるわけです。ちょいと下のやつらが喉から手が出るほど欲しい「殿上人」という立場。その立場に、こないだまでガキだった自分がいる。それはもう、身が震えるほどの感動と緊張だったことでしょう。公卿の家に生まれるものと、それ以外。この差はデカい。その差は、時代が変わらなければ挽回が不可能なほどでした。
 なお初冠の位階は出身によって優遇措置もあったようです。藤原道長の嫡子だった頼通は正五位下で、一般的な従五位下の二段階上からのスタートでした。

 さて男は成人し、宮中での立場と仕事を与えられると「社会人」となります。ここからは昇進を重ねながら情報を集め、また自分自身も売り出しつつ、十代後半には結婚します。結婚相手となる女性の仕事は衣食住の取り仕切り。男がいつまでも親の援助を受けて衣服の調達をしているのはみっともないという感覚もあったようです。二十代前半くらいまでに結婚していないと、「色々と不都合があるのにどうして…」という目で見られてしまうことになります。
 また結婚は勢力増大の強力な足がかりになりますから、女性の父親が有力者であることが望まれます。従って「モテる」女=父ちゃんすげえヤツ、ということになります。必然、決定権は女親の父親が握るようになっていきました。
 まあ道長のように自分で相手を見繕って、その父親に直訴しに行くようなスーパーマンもいますけど。
 「あの男を我が娘の婿とせよ」。公卿一族の結婚はこうして決められます。

 選ばれた時から、「通い婚」「招婿婚」が始まります。この時は婿の立場が強くなります。これはまだ仮初めの結婚形態で、男の意志次第で立ち消えになってしまうこともあるからです。
 従って恋愛のゴールと言いますか、2人(及び互いの両親)が安心できるようになるのは、住んでいる家を受け継いだり新居に引っ越すことで「2人の新生活」を始めたとき、と言えそうです。このとき女性は北の対に住むことになり、「北の方」と呼ばれるようになります。
 新居に身分が同程度の妻を複数おいてハーレム化するという事は、ほぼ無かったと言って良いでしょう。嫉妬の感情は当たり前にあり、感情の表出が禁じられていたわけでも無いのです。男性としても、わざわざ火種を囲い込む意味を見出せなかったはずです。

 なお土地の「所有」は地券で証明するのが通例のようです。その辺りは現代とあまり変わりませんね。その地券は特に男子が相続するものと決められていたわけでもありません。男子が生まれない場合もありますから、当たり前ですが。

 さてこうして公私が安定すると、ようやく男は他の女に手を出し始めます。ここからが、物語的な「平安時代の恋愛」。垣間見とか和歌の贈答とか。これってようするに愛人探しなんですね。
 他の貴族の娘に素敵な人がいると聞けば、和歌を書いて手紙とし、許されれば夜這いをかけ、気に入れば三日連続して通います。三日目には「露顕(ところあらわし)」という儀式を行なって、女の親や周囲の人物にその男の存在を示します。披露宴みたいなものです。「この方が我が娘のもとに通って来てくださっている!我々はそれを認める、歓迎するぞ!」という宣言なのです。
 ちなみにここで関係をもった女性は、いわゆる「妾(めかけ)」と考えるのが正しいようです。そこにメリットはあるのか?親は何を考えているんだ?と私は昔思いましたけども、そこは男の「公卿の一族」ブランドが効いているわけです。妾であろうと公卿または将来公卿になる人と縁ができる。そうなれば妾となった娘の兄弟の出世にも影響が出ようし、妾の子も官途が開けることとなり、自家の隆盛が可能性を帯びてくる。だから通ってくる男にとって2番目以降の女であっても、その女と一族にとっては歓迎すべきことだったんですね。
 ま、本妻と離縁したり本妻が亡くなることもありますし、あわよくば正妻、という意識もあったでしょう。和泉式部なんか、愛人身分でありながら敦道親王の北の方を追い出す形になっちゃいましたもんね。

2 そうでも無い男たちの場合

 さて、勢い盛んな家の男子たちはそうやって充実の人生を送っていきますが、そうでもない子らも、当然いるわけです。そうした子らはどういう人生を送っていくのか。
 例えば政争に敗れた家の子らは官途が閉ざされます。するとそのまま自分の立場にしがみつくこともありますが、出家することも多かったようです。その子孫は公卿になれない貴族、または官人に落ちぶれていきます。
 またそもそもがパッとしない家柄に生まれた男の子は、独自に出家したり、または宮中なんかで職場恋愛した上で受領となって地方に行ったりします。比較的勝ち組な生き方としては、受領として富を蓄えた上で大貴族の家司(執事みたいなもんですね。宮中の仕事とは別に、副業としてやってます)となり、その間にその大貴族の一族の娘と職場恋愛しちゃったりして結婚までこぎつけて、何ていうパターンもあります。

3 女子は?

 さて、それなら女子はどういう生き方をしていたんでしょう?
 女子は。一言で言えば、待つ存在です。

 公卿の家の女子は、生まれた家で育てられ、帝のキサキとして入内させることが最大目標として設定されます。入内の代わりに勢い盛んな大貴族の子息を婿に迎えることもあります。これはもう、父親の意思が99%と言って良いでしょう。

 貴族とは言え4位、5位のパッとしない家柄の娘さんだと、何かの拍子に男がやってくるのをひたすら待つことになります。お父さんも頑張っているのでしょうが、何せパッとしませんからね。金銭的・血筋的に結婚するメリットが無いとなると、なかなか出会いが無い。
 9世紀には五節舞姫として人前に姿をさらすこともありましたが、それも数多くは無い。公卿と縁が無いと選ばれることもない。そうすると、30を過ぎての結婚や、中には結婚せずに出家する例もあったようです。
 もちろん結婚したものの離婚する場合や、死別することもありました。清少納言や紫式部、和泉式部などはそういう立場です。
 出会いを求めて神や仏に祈りをささげに行く話しが説話集にはいくつもあり、実際そういうことがあったのだろうと考える人もいます。ロマンス的な問題ではなく、生きていく為、ですね。地方の領地を相続して持つ女性もいましたが、みながそうでは無い。身の回りを調えるにしろ毎日の生活をまわすにしろ、父や夫からの経済的援助が無ければ立ちゆかない女性が多数派でした。

 こういう「受身の女」「待つ女」としての人生はなかなか辛いものがありますよね。そこで条件は決して緩くありませんが、パッとしない家柄の娘さんが「女房」としてお仕事をする人生、というのもありました。宮中や他の貴族の家に行き、そこの尊い女性の身の回りの世話をする仕事です。もちろん仕事をしますから、男性にも顔をさらします。すると確かに出会いは増えます。ですが大貴族たちに弄ばれるような可能性も無視できない程度にあったようです。意に沿わぬ妊娠・出産の場合には子を捨てることもあったようですし、男が認知した場合でも、子を奪われてしまうようなこともありました。要するに軽い立場だったんです。
 こういう世界に自ら入っていくわけですから、女房という人生を女の生として軽んじる見方もあったようですね。貞女として親に養われ生きている女性たちからすれば、水商売でもやっているのと変わらない様に見えたのかもしれません。一方で清少納言などは、宮廷社会を知る女としての自負を持っていた様子でもありましたので、仮に水商売だったとしても「銀座の女」くらいの格はあったのでしょう。


4 終わりに

 政治が安定し国が栄えると、子孫は増え人口が増大します。全体が拡大すればヒエラルキーの上部に属する人口も増えます。しかし制度は簡単には変わりません。新たな役職や権官を設けて人数を拡大したりもしましたが、人口増の方が勝った時期もあったようです。摂関期には、ランキング上位でありながら無職、という残念貴族も存在しました(非参議といいます)。ポストが固定した社会で意図した通りの人生を歩むことは難しいことだったのでしょうね。


(主な参考資料)
・池田亀鑑『平安朝の生活と文学』
・川村裕子『王朝生活の基礎知識』
・立石和弘『男が女を盗む話』
・工藤重矩『源氏物語の結婚』
・服藤早苗『平安朝の母と子』
・服藤早苗『平安朝の女と男』
・服藤 早苗『平安朝の父と子』
・倉本一宏『藤原氏』
・十川陽一『人事の古代史』

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