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1月28日 次男の行き倒れと聖徳太子の憐れみ

  4歳の次男は、僕が帰宅してドアを開けると、満面の笑みで迎えてくれる。

「おかえり!」を聞かせてくれない君はたぶん行き倒れてる絨毯の上で

 迎えてくれない時は、大体その辺で寝ている。奥さんは2歳の娘の世話や7歳の長男の学習指導で忙しいため、次男は毛布だけかけられて放置されている。それでも何だか幸せそうに見える。

 と、思ったら、今日は静かにニンテンドースイッチをやっていた。
 何か悔しいな。

改作
「おかえり!」を聞かせてくれない玄関で行き倒れてる君を思う

☆   ☆   ☆

 行き倒れと言えば聖徳太子。『日本書紀』や『万葉集』にその名で詠まれた歌謡が残っているけど、ここは短歌形式で勅撰集に収められた『拾遺和歌集』の歌を見よう。

しなてるや片岡山に飯(いゐ)に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし

 「しなてるや」は語義不詳の枕詞。「しな」は「階(しな)」で、斜面が階段上になっていることを、「てるや」は「照るや」を意味しているのではないか、という仮説がある。従っておく。

 「あはれ親なし」は唐突だ。
 『日本書紀』の歌はもう少し長く、「あはれ親なしに汝生りけめや…」と続いていく。ここも同様の意味を短く言ったとしておこう。

段を重ねるかのような稜線に陽が当たっている
そんな片岡山に
食を得られず、飢餓に苛まれ
横たわる旅人よ
君は親がいないのか

 稜線、と言ってしまうと違和感がある気もする。しかし「山の片側の斜面・勾配」なんていう言い方は説明的すぎる。何か良い言い方がないもんか。

 行き倒れている。親がいないからだろう。そんな推測が共有されるほど、親の存在は生命を左右するものだったらしい。保険も互助組織も無い時代だと思えば納得できる。大きな氏族であればいざ知らず、生きる道を失った人の面倒を共同体がみることも無かったのかもしれない。


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