【玉葉集】7 霞を見つけた吉野山
いつしかも霞みにけらしみ吉野や
まだふる年の雪も消なくに
(玉葉和歌集・春歌上・7・鷹司基忠)
気がついたら早くも
霞んでしまったらしい
美しい吉野よ
まだ去年の雪も
消えていないのに
霞が立つのは春の象徴。
雪が残るのは冬が終わっていない証。
二つの季節が同居しているのがおしゃれですね。
とはいえシンプルな発想ですから似た歌はあります。それらと『玉葉和歌集』の歌はどこに違いを見出すべきでしょうか。
玉葉集から遡ることおよそ百年。空前絶後の歌数が番わされた『千五百番歌合』によく似た歌があります。丹後が詠んだ歌です。
麓まで霞みにけりなみ山には
松の葉白き雪も消なくに
(千五百番歌合・春・44)
山麓まで
霞んでしまったことだよ
山では
松の葉に降った白い
雪も消えていないのに
丹後の歌は麓まで霞んだ春景色と山中の松の葉に雪が残る冬景色を対比しています。こちらは
深山には松の雪だにきえなくに
宮こは野辺の若菜摘みけり
(古今集・春歌上・18・よみ人しらず)
深い山の中では
松の木の枝に積もる淡い雪でさえも
消えていないのに
都では野原の
若菜を摘んでいることだよ
を彷彿とさせるでしょう。古今集の歌は山奥の松に積もる淡雪と春を迎えた都の人を対比しています。
山奥の松の雪と都の若菜摘みを対比させた古今集。
同じ松の雪を山麓の霞みと対比させた千五百番歌合。
そして霞を吉野山にまとわせつつ雪をも抱かせた玉葉集。
こうして並べてみると玉葉集の基忠歌が地域の対比になっていないことに気がつきます。
吉野山に霞と雪が同居する基忠詠。そう整理してみるとちょっと挑戦的な雰囲気を感じます。なぜなら吉野山と霞と雪を並べる歌としてあまりにも有名な次の古今集歌があるからです。
春霞立てるやいづこみ吉野の
よしのの山に雪はふりつつ
(古今集・春歌上・3・よみ人知らず)
春とはいえ霞が
立っているのはどこだ?
山深い吉野
この吉野の山々に
雪は繰り返し降っている
冬の色が濃い吉野山で春を見つけられなかった古今集歌。
それから400年が経ちました。
その間に山奥の冬は遠い都や近くの山麓の春と比べられてきました。
そしてとうとう玉葉集の吉野山で冬と春は出逢ったのです。
吉野山の系譜。そして冬景色と春景色の同居の系譜。
その交差する点に基忠歌があると思って見てみましょう。すると工夫の少なく見える一首にも味わいが生まれてくるのではないでしょうか。
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