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《新古今集》ワンワールド

行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影
       (新古今集・秋歌上・422・藤原良経)

 野に立ちぐるり見渡すと、360度の地平線。草原が彼方まで広がり空と接し、目線の高さに月が出ます。

 大きな大きな風景です。
 この歌の現場は武蔵野でなければなりませんでした。京の周辺は山がちですし、巨景が望めそうな北海道には京文化が及んでいません。そんな日本で遙かな地平を見渡す世界といえば1000年前でも関東平野。武蔵野だったのです。

 大きな景色に浮かぶ月。広々として美しい風景です。しかし良経は本当に美景としてのみ、この歌を詠じたのでしょうか。

 そう疑ってしまう理由の一つは「草の原より」という言葉。都であれば月が出るのは山の端です。京の盆地に住む都人にとって、視界は山に囲まれているものでした。良経は、武蔵野はそうではないぞ、と言います。月は草の原から目線の高さで現れます。山の不在が印象づけられます。
 関東に生まれ育った人にとっては当たり前かもしれません。しかしかつて茨城に住んでいたとき、伊豆で生まれ育った僕の母は山の無い不安を訴えたことがありました。視界に山があって当たり前の、関東以外の人たちにとっては、山の不在は不安をもたらすこともあるのです。

 もう一つは空と接続するのが行く末である野だということ。空と何かが一続きに見えるという発想では、先行歌に藤原俊成の

思ひ出でよ神代も見きや天の原空もひとつにすみの江の月
                  (長秋詠草・247)

住吉の神よ思い出したまえ
神々の時代にもかくばかりの景色は見たろうか
大きく大きく天に広がる
空も海と一つになって
澄み渡る、この住之江の月の景色を

があります。こちらは純然たる美景。詠んでいるのが海ということもあり、景色は作中主体のいる場と切り離されているでしょう。しかし良経歌は「行く末」の武蔵野です。自らが歩みゆく先の景色が空と一体化しているのです。ここには広大無辺の世界を一人歩みゆく心細い旅人の姿を見出せないでしょうか。

 この旅人の行く手には、月が現れます。この月は孤独な旅人の導き手として救いをもたらしているようです。良経の月は美的世界のシンボルであるとともに、荒涼とした世界の旅人を導く真如の月(人々の迷妄を打ち破るもの)でもあると思うのです。


顔も見ぬ誰かの背中に振るう刃を研ぎて丸まる背にも月あり


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