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【新古今集・冬歌17】詠み継がれる時雨

時雨かと聞けば木の葉の降るものを
それにも濡るるわが袂かな
(新古今集・冬歌・567・藤原資隆)

(訳)
おや時雨が降ってきたかと
よくよく聞いてみると
木の葉が降るのだったけれども
そんな木の葉が降る音にまでも
濡れてしまう私の 袖口

 時雨は晩秋・初冬のにわか雨だ。『万葉集』ですでに約40例みられる(『万葉ことば事典』)。晩秋の時雨は木の葉を染める仕事もあったようだ。ところが平安時代に入ると冬の雨を指すようになった。そうして木の葉を散らす仕事を得た。
 さらに『千載集』時代になると時雨の音に注目が集まる。音は涙を誘う物でもあった。

音にさへ袂を濡らす時雨かな
槇の板屋の夜半の寝覚めに
(千載集・冬・403・源定信)


(訳)
音でまでも
袖口を濡らしてくる
まったくもって 時雨
板葺き屋根の小さな小屋で
真夜中 目が覚めた頃に

こちらは源俊頼によって判がつけられている。

音を聞くに袂濡るとよめる、いとをかし、さも有ることと聞こゆ
(訳)
音を聞くと袖口が濡れると詠んだのは何とも風情がある。いかにも有りそうなことと納得できる

 判詞からして時雨の音が涙を誘うのはこの当時新しい発想だったのだろう。同時に判をつけた基俊にも「『槇の板屋の夜半』の時雨は、ことにめざましく聞え侍る物かな、袂ぬるらんもいとをかしく侍り」と絶賛されている。
 この定信歌に学んだとおぼしい歌は平忠盛などにある。

 定信歌の影響を十分に感じさせながらさらに「木の葉」を挟んできたのが藤原俊成だ。

まばらなる槇の板屋に音はして
漏らぬ時雨や木の葉なるらん
(千載集・冬歌・404)


(訳)
隙間が多い
板葺きの小さな小屋に
音はしても
屋根の下に漏れてはこない時雨は
さては木の葉であろうか

 この歌は俊成が自ら編纂した『千載集』でわざわざ定信歌の次に配置した。意識していよう。

 こうして時雨は初冬の物・音で涙を誘う物・木の葉の散る音と紛う物という役割を得た。
 この先に資隆歌がある。時雨に聞き間違った木の葉は結局のところ時雨と同質であった。その音は時雨と同じく聞く者の涙を誘って袖を濡らしたのである。

☆ ☆ ☆

時雨かと見れば吹かれて舞い踊る
街の灯りに白き初雪

 
 



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