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2月17日 僕のICTと仲実の挑戦

 授業にプロジェクターを持っていくことが増えた。電源を繋いでスクリーンを広げて設置するまで、3分もかからない。

 生徒が珍しがって寄ってくることも無くなった。

 珍しさが消えたら、間抜けさしか残らないんじゃないか、という恐れが少しある。

黒板にスクリーン貼る僕の背よ窓拭き職人の確かさをもて

☆ ☆    ☆

 和歌も進化した。歌人達は先例を学びながら、新しい表現の方法を模索した。

 もちろん、新しければ良い歌となったわけはない。タブレットやプロジェクターを持ち込めば良い授業になるわけではないように。

 新しさを良さに結びつけるには、どんな工夫があったのだろう。今夜は『堀河百首』を開いて、その挑戦の一端に触れてみたい。

春来ては花とも見よと片岡の松がうれ葉に淡雪ぞ降る(87 仲実)

 『新古今和歌集』にも選ばれた歌だ。

 『古今和歌集』に良く似た歌がある。有名歌と言って良い。

春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く(6 素性法師)

 先行するこの歌があった上で、仲実は「春来ては」歌を詠んだ。素性法師の歌の枠組みから逸脱し、かつそれが成功したから『新古今和歌集』で評価されたのだろう。

 仲実歌は何が違ったか。

 初句はやや表現は違うが、春到来を確定している点では変わらない。

 二句は違う。素性法師歌の「見らむ」の主語は鶯だ。しかし仲実歌の「見よ」は景色を擬人化して語りかけさせている。この主語は松か、淡雪か。ここは「ぞ」で強調されている「淡雪」と見ておく。

 三句以降は雪のかかり方が違う。素性歌は枝に白雪がかかった、と詠む。仲実は松の葉の先端に淡雪が降っている。その繊細さは

小塩山松の上葉に今日やさは峰の薄雪花と見ゆらむ(『紫式部集』)

の発想に似る。


 次に紫式部集の歌(ぎこちない言い方になるが、紫式部本人の歌では無い可能性がある)も交え、一首の世界を構築するパーツを発想する順番を確認してみよう。

 まず素性法師の発想は「樹上→雪→花」だ。木に降った雪が見えて、花の様な景色を発見している。自然な流れだ。

 紫式部集の歌の発想は「樹上→花=雪」だ。「=」にしたのは、花も雪も想像上のものだからだ。そこには発見の驚きはない。雪が花のように見えるという発想が前提としてあって、そこに小塩山の景色を想像して当てはめている。和歌的発想が伝統化しているのを感じる。

 そして仲実歌は、明確に「樹上→花→雪」だ。命令形を用いて、用意された花の見立てに自ら飛び込んでいく淡雪を描く。


 伝統を学び、歌を詠む。しかし学びはマネに終わらず、少しずつ発想をずらし、やがて新しさを獲得する。そのずらし方の絶妙さこそ、伝統を学んでいることを示す。新しい発想だが珍奇ではない。そう言えるギリギリのずらし方だからこそ、読み手の納得する歌となる。
 仲実の新しさの「良さ」は、伝統への深い敬意と学びの精神が垣間見えることでこそ、保証されたのではなかっただろうか。

春が来たからには
花だとも見るが良い、と
片岡の
松の葉の先端に
淡く雪がのっている

 


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