【新古今集・冬歌3】紅葉のダム

 朝、三歳の娘が赤ちゃんになった。
「わたしはあかちゃんだからだっこして」
「きみはさんさいだから、あかちゃんじゃないよ」
「ちがうの、わたしはあかちゃんなの」
 娘は「わたし」を滑舌よく言う。「た」が強めだ。
 本人が赤ちゃんだと主張するなら仕方が無い。抱っこして燃えるゴミを捨てに行った。
 ゴミ捨て場にはネットがかかっていた。娘とゴミで両手が塞がっていた僕は少々困った。すると娘が手を伸ばしてネットをどけてくれた。有能な赤ちゃんに感謝を込めて頬ずりした。
 帰りは両手で抱っこをした。
「ちゃむい」
 甘えた声で娘が僕の首に両手を回す。娘のお腹が僕の胸にぴったりとくっつく。もぞもぞと動く娘の身体が暖かい。
 うちに帰ると長男がぐにゃぐにゃ揺れながら
「パパは娘ちゃんに甘い」
と怒った。

☆ ☆ ☆

名取川柳瀬の波ぞ騒ぐなる
紅葉やいとど寄りてくらむ
(新古今集・冬歌・553・源重之)

(現代語訳)
名取川では
梁が仕掛けられた浅瀬の波が
音を立てているのが聞こえる
紅葉がますます
流れ寄ってせき止めているのだろうか

 都からはるか遠い名取川。宮城県の歌枕だ。古今集の昔から歌われた。ただし景色はあまり詠まれない。根も葉もない噂(=なき名)を立てられる(=とる)ことの序詞に使われたり比喩に使われたりした。「名取」が連想を呼んだのだろう。

 今回の歌を詠んだ源重之は古今集から50年ほど経った10世紀後半の人だ。下級貴族の家に生まれ、都で貴族としてはギリギリの地位を得た。その後は地方の役人として過ごした。赴任するばかりではなく旅もした。
 そんな事情からだろう。宮城の歌枕だった名取川に対し臨場感がある推定の助動詞「なり」を使う。「重之集」によれば百首詠進を求められて詠んだうちの一首ではあるらしい。かつて訪れたそこを思い出して詠んだのかもしれない。

 重之がリスペクトした歌人に曾禰好忠がいる。その好忠の歌に

川上に夕立すらし水屑堰く
柳瀬のさ波立ち騒ぐなり
(好忠集・157)

(現代語訳)
川上で
夕立が降っているらしい
水中のごみが流れをせき止める
梁が仕掛けてある浅瀬の波が
大きな音を立てているようだ

がある。曽丹集冒頭にある毎月集の「六月はじめ」歌群の一首だ。重之も見ていたかもしれない。二首を比べてみよう。

 曾禰好忠は既にゴミでダム化した梁の音が大きくなったことから上流の夕立を推定した。ゴミ。変な歌路線を攻めた好忠らしい歌材だ。

 源重之は梁の音が大きくなったことから梁に引っかかった紅葉が増量したことを推定した。紅葉。おしゃれだが歌材としては凡庸。
 しかし「いとど=よりいっそう、ますます」が紅葉の量感を高めていて上手い。一首の焦点が紅葉に定められていることがわかる。紅葉が以前にも増して美しく降り積もる様子が目に浮かぶ。
 重之歌はこの「いとど」が肝ではなかろうか。

☆ ☆ ☆

自転車に冬が近づき天秤に
かけるガソリン代と寒さと







 

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