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渡部泰明『和歌史』(角川選書 令和2年10月30日)

 驚嘆の名著である。

 渡部泰明氏は『和歌とは何か』(岩波新書 2009年)で、和歌に憧れつつも敷居の高さを感じて敬遠していた読者の心をわしづかみにしてみせた。そしてその後も一貫して古典を愛好する人、古典を教える人に視線を向け続けている。『うた恋い』(KADOKAWA 2013年)に登場人物として参加したり、『「君の名は。」で古文・和歌の読み方が面白いほどわかる本』(KADOKAWA 2017年)を執筆してみたり。そして2019年1月に明星大学で開催され、youtubeでも配信されたシンポジウム「古典は本当に必要なのか」に東大教授の肩書きを持って参加したことの衝撃は、いまだ記憶に新しい。
 そんな古典を愛し、古典の愛好者を愛し、古典の行く末を憂う氏の、渾身の作が本書である。

 渡部氏は「おわりに」で、本書が『日本文学と和歌』(放送大学教育振興会、近刊)と「相補い合う関係にある」という。そちらも興味深いが、氏の作品で言うなら『和歌とは何か』と対比して読むのも楽しい。『和歌とは何か』はタイトル通り、和歌の有り様を平明かつ感動を伴って言語化してみせた。それに対し、『和歌史』は和歌の歴史を言語化する内容だ。氏はそこで歌人ひとりひとりがどのようであったかを語るのみならず、「和歌史とは何か」というメタレベルの問いに対しても書全体を通じて答えを示している。各章は歌人についての箇条書き的な叙述に堕すこと無く、「和歌史」を語る一貫性を保っている。そこには言わば、物語的な楽しさがある。

 その物語性が可能にしている、もう一つの楽しさがある。他においてもそうだが、本書でも渡部氏は、自身が作中に参加しているかのように読者に語りかける。本書におけるそのさまは、まるで歌人たちのドラマを繋ぐ狂言回しであるかのようだ。そしてその立ち位置が、語り手である氏と歌人達との距離の短さを演出する。そうして氏は、歌人達の創作する思考に寄り添うように、彼らの創作意識を丹念に描き出す。歌人達の、過去に偉大な業績を打ち立てた天才として歴史の中に屹立する有様は、描かない。そうでは無く、彼らが歴史を背負い時代と対峙する中で己の創作を何とかものにしようという苦闘を語る。そうして、和歌史を動かす作品が生まれたその瞬間を、読者の脳裏に刻みつけてくれるのだ。

 渡部氏の和歌を語る言葉は、既にそれ自体が詩だ。ひとつひとつの和歌を語る言葉が、和歌の詩性、ドラマ性を失わせることなく、読者のもとに届けられる。その解説に酔いしれることの、何と気持ちの良いことか。
 和歌に対しても、和歌を語る言葉に対しても、まだまだ解像度の低い自らの不勉強を恥じながらも、私が本書に出会えたことは間違いなく喜びだ。そしてどうか、氏の言葉がもたらす極上の酔いを、より多くの方に楽しんでいただけたらと願う。

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