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昨日の夢と明日の予感

 とある日曜日の朝、鶴戸美粋はいつもより早く目を覚ました。
「♪腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動から……」
 ピアノの前奏とともに、ラジオから紳士的な掛け声が響き渡る。彼女の妹のふらんが庭で体操をしているのだ。
 いつもよりも早く美粋が目覚めたのは、別にラジオの音が大きかったからではない。
 いつの頃からか夏休みでもないのに、朝の体操をすることが彼女の妹の日課になっていた。時間があるなら一分、一秒でも多く寝ていたい美粋にとって、ラジオの音など瑣末なこと。いつもは、ラジオの音などで目を覚ましたりはしないのだ。
 別に夢見が悪かったわけでもない。
 美粋は起きる直前までどんな夢を見ていたのか思い出そうとしたが、思い出せなかった。夢なんて見ていなかったのかも知れない。
 ともかく、美粋はいつになく早く起きたのだ。
 何かの予兆だろうか? それとも予感?
 どちらにせよ、起きてしまったものは仕方がない。美粋は布団を跳ね除け、大きく伸びをした。
 三月になったばかりの時期の空気はまだ少し寒かったけれど、それでもほんの一週間ほど前に比べても、充分に暖かくなったと言っていい。
 何となく爽快な気分だ。
 いつもこのくらい早く起きることができたら良いのに。
 ベッドの脇にある眼鏡ケースに手を伸ばしながら、美粋はぼんやりとそんなことを考えた。しかし、そう考えたのは一瞬のことで、やっぱり睡眠時間を多く取れる幸せに替えられるものはないかも、と思い直した。
 昔から寝る子は育つって言うしね。

‡ ‡ ‡

 鶴戸美粋は、地元S県三鳩谷市にある三鳩谷学園という普通校の社会科の教師である。教え子たちとは年齢が近いこともあって「美粋先生」と下の名前で呼ばれ、親しまれている。
 S県内の大学の文学部史学科を卒業したのだが、もともと、特に教職につこうと思って進学したわけではなく、教職科目を履修したのも「教員免許を持っていた方が、あとあと何かの役に立つかも」という単純かつ気軽な動機からである。
 卒業論文に手間取っていた美粋は、あまり就職活動に力を入れてなかったのだが、たまたま地元の出身校に欠員が出たとかで、すんなりと教職につくことができた。
 あとあとどころか、すぐに役立ってしまったと言うわけである。友人たちは、美粋の棚からぼた餅的な就職をうらやみつつも、「あんたが教師ねぇ……」と、嘆息まじりにあきれたものだ。
 それは、昨日のことのようだったが、就職してからこっち、学生時代とガラリと生活習慣が変わってしまったために、遠い昔のことのようにも思えた。
 今では、美粋は、後輩にあたる教え子たちに日本史を教えつつ、自転車部など構成員の少ない小規模ないくつかの部活動の顧問──といっても実質的な指導を行うのではなく、名目上の顧問であるというだけなのだが──をこなしたりして、充実した毎日を送っている。

‡ ‡ ‡

 簡単に着替えを済ませて居間に向かうと、母親が朝食の支度をしているところだった。
「あら、美粋。早いのね」
 母親が振り返らずに声をかける。
「うん。何か……起きちゃった」
「待っててね。ふらんの体操が終わったら、朝ごはんにするから。新聞かテレビでも観てて」
「うん……」
 生返事をしながら、美粋はダイニングのテーブルに腰かけ、頬杖をついた。
 時間が過ぎるのを待つときは、新聞やテレビを観るより、ボーっとするに限る。
 斜め上空をぼんやりと眺めながら、美粋は妹の体操が終わるのを待った。
 脳裏を様々な情報が行き交っているかのような錯覚におちいる。
 何か考えているようで、何も考えてない瞑想の時間。そんな時間を過ごすのは、美粋の十八番と言っても良かった。
「そうそう。今日だからね。忘れないでね」
 母親が何かを語りかける。
「え?」
 美粋は我に返った。
「なぁに? お母さん」
「また、ボーっとして。よくそんなんで教師が勤まるね」
「ほっといてよ……」
 美粋は唇をとがらせた。教師としての面しか知らない教え子たちには見せられない表情である。
「で、何?」
「前に言ったでしょ。駅まで迎えに行ってあげて」
 迎え?
 何の話だろう?
 美粋は、小首をかしげた。
「ほら、三菱さんとこの十字君が来るって言ったでしょ? わざわざそのためにお父さんが、倉庫を改築したんだから。忘れないでよね」
「ああ」
 美粋は、母親が何のことを言っているのか理解した。決して忘れていたわけではない。
「今日だったのか……」
 東京に住んでいた従弟がやって来るのだ。
 彼の父親、つまり美粋の伯父に当たる人が、リストラを期に夫婦で海外へ移住することになったので、彼だけ、鶴戸家で引き取ることになったのだ。
 三鳩谷学園に編入するという話だったから、場合によっては美粋の教え子になる可能性もある。
 美粋は、従弟の顔を思い浮かべた。小さい頃から何度も会っているので、弟のような存在としての印象が強い。
 彼に最後に会ったのは、美粋が都内にある教養部のキャンパスに通っていた頃、つまりまだ学生の頃だった。とは言っても、ほんの三、四年ほど前の話である。そんなに昔のことではないのだが、彼は成長期まっさかりだったはずだから、今では見違えているはずだ。身長もかなり伸びているに違いない。
「……にしても、急だよねぇ。来月から新学期なんだから、それまで待ってれば良かったのにね」
 美粋は今までにも何度か思っていた疑問を口に出した。
 この疑問を美粋が口にするのは初めてではない。だから、母親も「またその話?」と言わんばかりの顔で、何度目かの答を繰り返した。
「先方にも都合があるんでしょ。しょうがないじゃない。お父さん、二つ返事でOKしちゃったんだから」
「お父さんは男の子が欲しかったんだもんねぇ……」
 美粋の締めの台詞すら何度目かの同じ呟きである。
 実際、ここ最近の父親の張り切りようと言ったらなかった。
 「年頃の男の子を預かるんだから、プライバシーを重視してやりたいね」などと言いながら、庭の倉庫を離れに改築してしまったのだ。彼専用の電話回線まで引いてやるほどのお節介ぶりである。
「お昼過ぎに鳩急踊り子で三鳩谷駅に着くって話だったから、車出してあげてね」
「はいはい。とりあえず詳しいことは朝ごはん食べてから聞きまーす。まだ脳に糖分が巡ってないから、今は何聞いても忘れちゃう……」
「まったく……。じゃあ、お父さんを起こしてきて。もうすぐ朝ごはんだからって。ふらんが戻ってくる前にね」
「はーい」
 美粋は、何が「じゃあ」なのかわからなかったが、素直に父親を起こしに行くことにした。
 立ち上がって窓から空を見上げると、気持ちいいくらいの快晴だった。こんな快晴のことを、美粋は洗車日和と呼んでいる。
(よし、今日は十字君のお迎えに行く前に、車を洗ってあげよう)

 美粋は名案だと思った。

‡ ‡ ‡

 朝食を済ませてからしばらくは、部屋でボーっとするのが美粋の休日の日課みたいなものだった。
 しかし、今日は何となく落ち着かなかった。
 今日から新しい家族がうちに来るんだ。そう思うだけで、何となくいつもと違う気分になる。気持ちが昂ぶっている、という言葉がピッタリだ。
 多分、今朝の早起きもその辺りのことが原因なのだろう。
 愛車の洗車を済ませ、コンタクトレンズを入れ、いつもより少し丁寧なメイクをして、他に何かしなければならないかなどと考えているうちに、気がついたら美粋は部屋の整頓を始めていた。
 元々、美粋はそれほど几帳面な性格ではない。それでも、普段から自室を散らかさないように心がけていたので、整頓というよりは、模様替えや配置替えのような感じになってしまっていた。
「あ……」
 ドサ。
 本棚にある教員関係の資料を整理していると、紙束のようなものが床に落ちた。
 どうやら原稿用紙のようである。
 美粋は、それを取り上げてみた。
「なんだこれ……?」
 それは、美粋が学生時代に書いた日本史の卒業論文だった。
 卒論指導の教授がアナクロな人で、ワープロ文書による論文提出を許してくれなかったために、すべて手書きで書かなくてはいけなかったという曰くつきの代物である。
「あは……、なつかしいなぁ……」
 書いてからしばらく時間がたっているので、どんなことを書いたのか大雑把なことは覚えているものの、細かい部分はいい具合に忘れている。
 美粋はなつかしくなって、整頓する手を止め、その論文を読み返してみることにした。
「…………ふむふむ」
 論文は、近世の山岳信仰についてかかれたものだったが、その内容は、決して褒められるようなもではなかった。
 発想が突飛で、夢見がちなこじつけが目立つ。その割に結論は無難なところに落ち着いてしまっているのも不甲斐ない。
 血眼になって探しただけあって参考文献や史料は豊富だったが、単なる文字数稼ぎのための引用も多かった。
 いくら指導教官が女子学生に甘い人だったとはいえ、よくもまあ、これで単位が取れたものだと感心してしまう。
 しかし、その一方で、過去の自分の歴史学に対する熱意のようなものも感じ取ることができた。
 果たして、今の自分にここまでの論文が書けるだろうか?
 美粋は自分に問い掛けてみた。
 答は「否」である。
 今の美粋は、学校で教鞭を振るう日本史の教師である。教育者として、人生のそして研究者の先輩として、これから歴史学という学問の門戸を叩こうという後輩たちの道標となることは、素晴らしいことだと思う。
 といいつつも、実際にやっていることはといえば、受験のために通史を教えているだけである。それは本当に美粋のやりたかったことなのだろうか?
 自分は、目の前の就職というエサにつられて何となく教師になってしまっただけではないのか?
 それは、教育者を目指していた者たちにとって失礼ではないのか?
 自分には、歴史を通じて、もっとやりたかったことがあったのではないか?
 人に教えるより、もっともっと学びたかったことがあるはずだ。
 あの頃の自分が夢見ていたことって、何だったろう……。
 いくつかの疑問が美粋の頭をよぎる。
「お姉ちゃ~ん!!」
 ふらんの呼び声で美粋は我に返った。
「そろそろ出ないと、お兄ちゃんが駅に着いちゃうよぉ!」
 どうやら、部屋の外でしびれを切らしているようだ。もうそんな時間か。
 美粋は、頭を軽く降って、妙な考えを振り払った。
 私は何をバカなことを考えているのだろう? それは就職を決めるときにさんざん考えたことだ。生活のために仕事をすることは大事だと思うし、教師という仕事は楽しく、自分にとって天職だと思っている。今の自分には、変わらない明日と、安定した未来の方が大事なのだ。
 それに、活き活きとした教え子たちの顔を思い浮かべれば、今、自分のしている仕事がどんなに素晴らしいことなのかわかるじゃないか。
「お姉ちゃんってばぁ! ……聞いてるのぉ!? お兄ちゃん、お迎えにいくんでしょ~? ふらんも乗ってくんだからね!!」
「はいはい! 今、行くって」
 美粋は、ふうとため息をつくと、論文を元々あった棚に戻した。
 気持ちが昂ぶっているせいか、今日は、普通じゃないことを考えてしまうようだ。
(家族が一人増えたって、平凡な日常が変わるわけじゃないか……)
 彼女は誰に見せるでもなく、ペロっと軽く舌を出すと、部屋を出た。
 論文のことはしばらく忘れていた方が良さそうだ。

‡ ‡ ‡

 庭に出ると、すでに引越しサービスのトラックがやってきていて、従業員と父親が、荷物を従弟が住む予定になっている離れへと運び込んでいるところだった。
 父親は、張り切って引越し屋さんに指示を出していた。いつもは、腰に悪いからとか言って、決して重いものを持とうとしないくせに、現金なものである。
 妹のふらんは、愛車の前で美粋を待ち構えていた。
「遅いよ!」
「あは、ごめんね。すぐ出るから」
 リモコンで車のロックをはずすと、待ってましたとばかりにふらんが助手席へと飛び乗る。
「お兄ちゃん、前みたくふらんと遊んでくれるかな?」
「そうね」
 美粋は愛車の運転席に座ると、シートベルトを締め、エンジンをかけた。
 経緯はともかく、今日からうちに新しい家族がやって来る。
 しかも、やってくるのは年頃の男の子だ。多分、自分の教え子になるだろう。
 カッコよくなってるといいな、なんて不謹慎なことを少し考えつつ、美粋はクラッチを踏み込みギアをロウに入れた。


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