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「『怪と鬱』日記」 2021年3月21日(日):「愚狂人」という概念

私は他人を許すのが好きだ。
例えば、私が道を歩いていたとして、急に見知らぬ誰かにドンと背中を押された場合を想定する。
バランスを失った私は転倒し、軽く肘を擦りむく。
驚いた私は「誰が背中を押したんだ」とその相手の存在を確認する。
その見知らぬ誰かが、いかにも転んだ私を嘲笑するような表情を、あるいは鋭い目つで悪意に満ちた恐ろしい表情を浮かべていたとしても、私はその人を許す。
なぜ蛮行を許せるのかは、後述する。

実際のところ。これまでの人生の中で急に背中を押されたことはないので、極端な例を妄想したに過ぎないのだが、とはいえ、これに類することは社会の中で往々にしてある。
他人と生きねばならないこの世の中で、こういった事態は避けられないことだ。
だが、都度相手を許すようにしている。
人はおしなべて幾ばくかの狂気性を持っていて、愚かな部分がある。

完全にまともで賢明な人など一人もいない。
あるのは「まともで賢明」と「狂っていてバカ」のバランスだけだ。

「あいつは狂っていてバカだ」と世間から評される人は、「まともで賢明」な部分が目立たないような行動ばかりしている。
逆に「まともで賢明」とされている人も、「狂っていてバカ」な所がフィーチャーされていないだけのことである。

人は多面的なので、さらに「優しさ」と「非情さ」、「面白さ」と「つまらなさ」など様々な二分立が入り混じった上でのバランスが、また生まれる。
そして、最終的に世間から「こんな人」というジャッジが為される。
ジャッジの基準は一番前面に出ている要素となる。

だいたい、しょっちゅう人を怒らせる輩は「狂っていてバカ」が多い。
いつ見ても前面に「狂っていてバカ」を出してくる人を、私は「愚狂人」と呼んでいる。

そして、この愚狂人に対して怒りの感情を持ち、何か行動を起こしてしまうことを「揺さぶられる」と表現している。
これまで愚狂人に揺さぶられた人を、たくさん見てきた。
揺さぶられる側の人はだいたい「まとも」な人が多い。

揺さぶられてしまった人を見る度に「あーあ」と思ってしまう。
どうせ負けるのだ。ほら、負けた。
その繰り返ししかない。
私は負けず嫌いなので、いっそ許すことを選んで、揺さぶられないようにした。
愚狂人には絶対に勝てないのだ。
勝てないなら勝負を挑む気にはなれない。
かといって、逃げるのもいやだ。
ならば許すことで正面から向き合い、「蛮行と、それに対する怒り」から離れた、新たな関係性を見出したい。
そこに何かあるのではないかと、そう思っている。

そうやって愚狂人を許していくと、段々と愚狂人の魅力に惹かれていきさえする。
ああ、あの愚狂人がまた人を揺さぶってる……なんという影響力だろう……などと思っていると、ついつい畏怖の念を持ってしまう。
あの愚狂人とあの愚狂人が戦ったらどうなるだろう、愚狂人が3、4人集まったら何が起きるだろう。そんなことを妄想して悦に入ることもしばしば。
私はもはや、愚狂人の虜だ。

人はそんな私を見て「優しい」と間違ったジャッジを下す。
しかし、まったくもってこれは優しい考え方ではない。
氷河より冷たい判断基準でジャッジし、完全に異常な視点で人を見ているからこその広い許容範囲だ。
アウトプットされた私の態度だけを見ると慈愛があるように見えるかもしれないが、慈愛は一つもない。「愚狂人だな」と思いながら人と交流する私を、優しいと判断するのは大間違いだ。

尤も、こういった私の考え方はある種「愚狂人との共存」という輝かしい未来を示しているのかもしれない。
みんな、余りにも揺さぶられる過ぎだと思う。
一度試しに、思い浮かぶ誰かに対して「愚狂人」というレッテルを貼ってみればいい。
そして、どうやってその愚狂人と付き合っていくかを真剣に考えてみればいい。
感情的にならず、負けることを前提にして距離を置いてみると、何かヒントが見つかるかもしれない。

個人名も具体的なエピソードも出せないため、曖昧な話になってしまった。
何となくでも伝わってくれたら嬉しい。



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