「『怪と鬱』日記」 7月1日(木) あるファンからのメール──愚狂人レポート(26)
神保町にあるアキラが住むアパートの一室は、個人スタジオとして整えられていました。居間と寝室が至って簡素だったため、機材に溢れたスタジオルームからは音楽にかけるアキラの強い拘りが、より強く感じられました。
私はエレキギターを一本だけ担いで訪ねていました。
しばらくアキラの入れたコーヒーを飲みながら他愛のない話をし、程よいところでスタジオルームに入りました。
「防音がちょっと弱いけど、まあまあ音は出せますから」
「これ、全部で幾らかかってるの? 一千万くらい?」
「いやいや、そんなには。何年もかけて中古でコツコツ買ってるだけだから総額はわからないけど、数百万ってとこじゃないっすかね。うーん、もう少しかかってるかも」
窓が防音板で塞がれているせいか、ルームにいてしばらくすると、すっかり時間の感覚が狂いました。私たちはチューニングをしてからギターを爪引き、アキラは私の音に反応しながら、エフェクターのツマミを動かしていました。
あちらこちらのラックに入った電子機材がLEDランプをチカチカと点滅していて、あまりメカニックなことに詳しくない私は、その環境にわくわくしながら弾いていました。
「ちはるさん、ちょっと歌ってみません?」
「あ、そうね。うん」
アキラはスタンドを設置し、マイクを私の口元に向けました。
マイクチェックをしてみると、随分と音量が大きく感じられ、私は苦情が来るのではないかと少し心配になりました。
「大丈夫っす。もっと大きい音出せますよ。そんなことより、やっぱちはるさん、声良いっすねえ」
私がコードを弾くと、アキラのディレイがかかったギターが被さりました。
「ふー」「あー」など軽いスキャットを入れている内に、段々と音のイメージが固まり、私は即興で歌詞をのせました。
すると、アキラのギターはまるでコンクリート壁のようにザラついた硬質な音に変わり、さらに世界を深めていきました。私もテンションを求めて、アクロバティックな運指でギターを奏でます。ああ、これはライブでも盛り上がるだろうと私は確信し、アキラの顔をちらりと見ました。
アキラは顔を真っ青にして脂汗を垂らしながら、懸命にギターを鳴らしていました。その姿は想像していた様子とはかなり違いましたが、見た目と裏腹にプレイはご機嫌です。セッションは三十分続いたか、それとも数時間に及んだか皆目見当もつかず、絡み合った二人のフィードバックがフェイドアウトすると、自然な終わりを見せました。
アキラは録音を停止すると「ちはるさん、どうしたんですか〜?」と困ったような口調で問いかけてきました。
「何が? 変だった?」
「変もなにも……最高ですよ! ちはるさん、もうこれからはこういう音楽やるんですか?」
「え? こういう音楽?」
「ええ。今までと全然違う! アバンギャルドで、ギターと声だけで作ってるとは思えない意外性があって……それにあの歌詞! 即興ですか? それとも記憶にストックがあったんすか?」
興奮気味のアキラからはプレイ中に醸し出していた悲壮感は見てとれず、いかにも満足気でした。
でも、私は彼が何を言いたいのか、まったくわかっていません。
どうも、とても良い演奏ができたらしい。
しかし、意図して奇をてらったことをした覚えはありません。
「ちはるさん、もしかして素であれやってたんすか? だとしたら、天才っすよ」
「素……かな。まだ、よくわかんないけど」
アキラはマックをいじって、早速録音したセッションを再生しようとしましたが、私はそれを制しました。というのも、自分自身もアキラのようにセッションの出来栄えに心が満ち足りていたため、記録を再生することによって水を差されるのではないかと思ったからです。
「じゃあ、これ俺がエディットして音源にしちゃいますよ。もしちはるさんも気に入ったら、リリースしちゃいましょうよ。これ、きっと海外でウケますよ。ニューヨークとかベルリンとか」
アキラの部屋を出ると、なんとも不思議な時間を過ごしたものだと、改めて思いました。あんなに興奮しているアキラを見るのは初めてです。しかも、ギターの名手からあそこまで褒められておきながら、セッションの内容を思い出そうとしても音の記憶がこれっぽちも浮かんできません。
電車に乗り、迎えのシートに座ったおじさんが懸命に歯クソをほじくるする様を眺めていたころには、もうセッションで鳴らされた音のことは忘却の彼方に追いやられていました。
アキラは私の何かが変わったことをしきりにアピールしていました。
そして、その変化がプラスに働いているらしいことも、彼の言葉からわかりました。
私に変化をもたらしたのはきっとA子。
ピタゴラスイッチ。
言うまでもありません。それしかないのです。
こんな時にA子の力に抗ってしまうほど、私はうぶではないのです。
おじさんは人差し指に溜めた歯クソを、隣で寝ているOLのバッグにこっそりと塗り付けていました。
(つづく)
(26)エンディングテーマ Dexter Gordon Trio"Lullaby for a Monster"
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