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「『怪と鬱』日記」 2021年3月26日(金):あるファンからのメール──愚狂人レポート(2)

A子とLINEを交換してから、いかにもこれから用事があるような素振りをしてライブハウスを後にしました。
帰りしなにA子の様子を窺うと、彼女は他のバンドマンに何やら話しかけていました。
どんな話をしているのかは分かりませんでしたが、若いバンドマンらは揃って能面のような顔つきをしていて、片やA子はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべていました。
帰路では、乗った地下鉄の中がいつもより臭く感じられ、胸が悪くなったことをよく覚えています。

私の家は新宿区のとあるマンションです。
値は張りましたが、私、夫ともに利便性があり、何よりも二人で仕事を頑張った勲章ともいえる我が家です。「新宿に住んでいる」と言うと、いつも「お金持ちなんだね」と返されますが、ここに至るまでの努力を察してくれる人は「大したもんだね」と言ってくれ、そんな時はとても嬉しく誇らしく思います。
夫はまだ帰宅していませんでした。私たち夫婦はなるべく関係に縛られない時間を過ごすようにしています。互いの詮索もせず、時々顔を合わせた時にあるツーカーの安心感があれば満足です。(すみません、自分のことを書きすぎました)

私は真っ先にシャワーを浴びました。その日は身体がとても汚れたような気がしていたからです。いつもより長めに、熱い湯を浴びました。
スマホを確認すると、LINEメッセージが5件入っていて、それらは全てA子からでした。
話ができて感激している、次は音楽談義がしたい、ちはるちゃんはまだまだ伸びると思う、などということが、ガチャガチャしたたくさんの絵文字とともに綴られていました。
それらは誤字が多く読点が一つもない、とても気が滅入る文面でした。
必要のない絵文字がずらずらと並ぶそのメッセージ群は、小学校三年生の姪っ子・宇宙(そら)ちゃんが「虫を捕まえました」「明日は遠足です」とLINEを送ってくる時のものにとても似ていました。
既読を付けたからには何か返信をしなければいけないと思った私は、お疲れ様、またどこかで会えると良いね、ライブ頑張ってねと、当たり障りのない返信をしました。
するとそのメッセージに次々と既読が付き、絶対にまた会いたい、友達ができて嬉しい、今度ご飯でもどう、などといった攻めたメッセージがまた絵文字とともに送られてきました。
私はこの時、自分のメッセージがむしゃむしゃと食べられてしまい、排泄物として返信が送られてきているようなイメージが脳裏に浮かびました。
しかし魔が差したのか、それとも私の悪い癖であくまで「良い子ちゃん」でいたかったのかは定かでありませんが、どういうわけか「A子とご飯を一緒に食べる」というアクティビティにいくらか惹かれるものを私は感じてしまいました。

「じゃあ、美味しいイタリアンレストランがあるから今度行こうか?(^ ^)」

私がそうメッセージを送ると、なぜかそれには既読がつきませんでした。
私が受動から能動に切り替えた途端に返信がなくなった格好です。
これではまるで私がA子に凄く興味があって交流を欲し、がっついているようです。
いつ返信が来るのだ。
なんで急に無視しだしたんだ。
私は無性に苛立ちました。
結局、私が床に就くまでの間に何度かスマホをチェックしても返信はなく、やはり既読にすらなりませんでした。
私は眠りにつくまでの間に、何度か深い溜め息を吐きました。
それなりに経験を積み、色々な人に会ってきたつもりです。
好きなことをやるためと思って、やりたくないこともしてきました。
自分が決して強い心の持ち主ではないことを自覚していて、自分のように悩んでいる人に何かをしてあげたいという思いもあります。
自分が「善人」である自信はありませんが、決して「悪人」ではないと思っています。
それなのに今日会ったばかりで、ほとんど知らないA子に対して異常なまでの嫌悪感を抱いている自分を見つけてしまいました。
具体的ではなくとも、常に上からの目線を感じさせる口調とメッセージ。
絶妙に弛緩した顔つき、何も分かっていない癖に何もかも知っているような態度。
努力を放棄し、真摯な態度を踏み躙るようなあの演奏。
ほんの少しの交流だったはずなのに、私は濃厚な嫌悪感をA子に抱いたのです。
忘れたいことだけが記憶に残る、完璧に最悪な一日でした。

起きた時にはもう昼に近い時間でした。
少しだけ居間の物が片付いていたので、夫がいつしか帰宅して、また外出したことが分かりました。
コーヒーを淹れてからスマホを見ると、いくつか未読のLINEメッセージがありその中にA子からのものもありました。
A子のメッセージは、自分は金が無い、というものでした。
メッセージの後には、私が知らない漫画かアニメの一コマなのか、とても下品な絵柄のキャラが「かたじけねえ!」と叫ぶスタンプがありました。
私は反射的に「奢るよ〜(^_^)」と返しました。
また即時の既読が付きませんでした。
この時はコーヒーを飲みながらMacBookで自分の作業をするうちに、すっかりA子のことを忘れ、苛立ちを覚えることはありませんでした。

その後2週間ほどのLINEのやり取りを経て、私はA子と昼食を食べに行くことになりました。
2週間で私がA子について知ったことは、「小さな食品製造工場で週二回のアルバイトをしているが、時給が安いのでお金がない」「生活と音楽活動に足りない分は親に仕送りをしてもらっている」「年齢は私の二つ上である」「『ファンのおじさん』からよく飯を奢ってもらっている」などということでした。
A子の住まいは新宿から3回電車を乗り換えて着いた駅から、もう20分歩いた所です。「家の近所にある食堂の豆腐定食は凄まじく腹持ちが良い」「生乾きの洗濯物の香りで白米食べてみたよ」とか、そんな一方的なメッセージもよくありました。(そんなメッセージは、いつもなぜか深夜三時過ぎに送られてきていました)

A子のメッセージの特徴は相変わらずの「絵文字大量」「読点なし」「上から目線」に加え、唐突に「男関係にまつわる相談」をすることです。そして、決まってこの「男関係にまつわる相談」にまともに乗ると、途轍もない徒労感を味わうことも分かりました。
例えば、A子が「ねえねえ、なんで男って◯◯なのかな?」という質問を投げかけてきたとします。それに対して「うん。私は◯◯と思うかな」と返信すると、まるでその私の意見を一切読んでいないかのように「そうか〜。ところで、男って◯◯だよね?」と次のメッセージが来ます。
つまりは一応は型として疑問符が付いているものの、どうもただ同調して欲しいだけなのです。これの相手をするのは本当に気が滅入りました。
つまらなく、愚かで、ディスコミュニケーションの最終形です。
本人に確認したわけではないのですが、A子は自分のことを「良い女」だと思っている節があるようでした。A子は常に「私は良い女で善意の塊で男というものを知っている。それなのによく悪い男に騙されていて、素直すぎる自分に悩んでいる」というスタンスを崩さずに相談を持ちかけてきたものです。
私はそんなA子のメッセージにほとほと嫌気が差しつつも、どこか「女性」として生きることの苦しみの共感や自分も持つ「心の弱さ」を見出してしまい、どうにも無下にできないまま相手をしていました。
もちろん顛末を知り(後述します。重ね重ね長文ですみません)、高田さんの記事を読んだ今の自分は、その私の対応が全くもって間違っていたことを知っています。
A子は「性」「心」「人」などを切り口に語るべきレベルのものではありません。
もっと別の切り口として語られるべきものです。
きっとその切り口に名前をつけるなら「愚狂人」となるのでしょう。

食事の日、A子は表参道のとある地下鉄出口に、緑一色のピッチピチにタイトなジャージの上下で現れました。
その姿はまるで、素っ裸で頭から緑のペンキを被ったような出で立ちだったので、私はちょっと微笑んでしまいました。
肩から大きな水筒をぶら下げていて、私が「それお茶?」と訊いたところ、A子は「ううん、砂糖水。水道水に上白糖溶かしただけだけど美味しいよ」と言いのけ、ニタリと笑いました。
「ああっ」と私はいかにも納得したかのような返事をしました。
A子は返す刀で「ちはるちゃんも、飲みたくなったら言ってね」と言い放ち、またニタリとしました。
私はそっとA子から目を逸らして「じゃあ、行こうか。ここからすぐだから」と言いました。
「あ! ちょっと待って!」
A子は立ったまま、ジャージのズボンのポケットに手を入れ何かを探しています。
「あったあった! これ、はい! 友達になってくれてありがとう!」
彼女がその言葉とともに私に片手で差し出したのは、個包装の小さな揚げ煎餅でした。
「あ……ありがとう」
「この揚げ煎餅、本当に美味しくていっつも一人で何個も食べちゃうんだよね。だから、ちはるちゃんにも食べてほしくて」
その揚げ煎餅は、A子の太腿の圧のせいで既に幾つかのひび割れが入っていました。
手渡された揚げ煎餅の包装には何の銘柄も書かれておらず、お摘みアソートの中の一つ、という印象を受けました。
もう一度A子に礼を言ってから揚げ煎餅をバックに仕舞い、私たちはレストランに向けて歩を進めました。
この時、私は既に疲れ切っていました。
「ねえねえ、ちはるちゃん。お店の名前なんていうの?」
A子が背後から言いました。
「サルーテっていう店だよ」
「猿の手? へえ。なんか珍しい名前だね。ギャハハハハ。なんつって。ギャハハハハハハハハハ!」
私は渾身の脚力で、その場から走って逃げたくなる衝動を必死で抑えました。

(つづく)

(2)エンディングテーマ Fantomas"The Omen(Ave Satan)"


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