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「『怪と鬱』日記」 2021年4月2日(金) あるファンからのメール──愚狂人レポート(7)

A子を帰らせるために外へ出て行こうとするスタッフの背中を、しばらく目で追いました。
いつの間にそうなってしまったのか、どこか意識がはっきりとせず、まるで白昼夢の中にいるようでした。
スタッフは会場の分厚い出入り口の扉を開け、受付カウンターへ向かって行きました。
そうして、すぐそこにいるはずのA子の姿を見ることがないまま、扉は閉まりました。
なお一層、何もかもがゆっくり動きだしました。
箱ティッシュを持った女性スタッフが「大丈夫ですか」と言いながら、私に近づいてきます。
「大丈夫です」と反射的に声を出しましたが、そのスタッフは問答無用で数枚のティッシュを私の鼻元に押し付けました。
この人が私のために何かをしてくれているのはわかるのですが、なぜそんなことをするのかがわかりません。
「鼻に詰めます?」と彼女は尋ねてきました。
楓さんと篤郎くんが同時に「あっ」と声を挙げた時には、私は鼻血まみれで床に倒れていました。

意識はすぐ戻り、逃げるように帰宅してから、血で汚れた衣服を着替えました。
スカートについた鼻血はなんとか取れそうですが、ブラウスについたものはひょっとすると取れないかもしれないと思いました。
その時点での私は思いのほか冷静で、A子の精神的乱入にすっかり慣れてきているように思えました。

なぜ今日A子が会場に来たのか、気になっていました。
A子が楓さんのファンとは思えません。
彼女の音楽趣味から想像するに、名前すら知らない可能性が強いです。
かといって、私から1万円を盗んだ本人がみすみす自分から会いにくるわけもありません。
私はこの数ヶ月にわたるA子の沈黙は、きっと彼女にとっての様子見の期間なのだと解釈していました。
それなのに、突如彼女は私に会いに来たのです。

私に会いに来た。

会いに来た。

来た。

私は想像の中のA子と思考を重ね合わせました。

今日は会場に行かなければ。行きたい。

なぜ、行きたい?

メリットがあるから。
行くと良い目にあえるから。

それはわたし?

いや、あなたじゃない。

打ち上げでも良いから、来たかった。
来れば、私にとってのメリットがあった。

お酒? でも、打ち上げのお酒もお金がかかるよ?

お酒なんていらない。コンビニの発泡酒でいい。
人。
会いたい人がそこにいた。

そこにいた。
あたしが、会いたい人。

あ!

ああ!

あなた! 

今日の会場に、会いたい男がいたのね!

そう。
男。
あたしは男が好き。
あそこに、会いたい男がいた。
ヤリたい男がいた。
男、ヤリたい。

「あなたの童貞、奪ってあげる」

私はSNSサイトを開き、ライブ会場の名前や自分の名前などを打ち込んで検索をかけました。
しかし、特に感想のようなものは見つかりませんでした。
そこで今度は打ち上げの場に残っていた面子を極力思い出し、目ぼしいバンドマンのアカウントの投稿を調べてみました。
「ミッドフィルダーズ」のヨシくん、「高円寺大地蔵」のマサルくん、「有限会社徳永英明」のカズくん。(すみません。これらバンド名は仮名です。似た名前のバントだと思ってください)
調べて行くと、打ち上げに参加していたバンドマンの中でも最も若い部類にあたるキヨシくんのアカウントが「今日は八丁堀! 楓さんとちはるさんの音、ヤバかったです。これから打ち上げ」と会場写真付きの投稿をしているのを見つけました。
そのツイートはたくさんの「いいね」を稼いでいて、ファンたちの注目度が窺えました。
私は「いいね」をしたアカウントを表示し、順に見ていきました。

◯◯A子

ビンゴでした。
以前、本人から聞いたA子のアカウントが並びの中にありました。

続いて私はA子アカウントをクリックして、今日の投稿内容をチェックしました。

最後の投稿は「行くしか!」でした。相変わらず絵文字をたくさん使っていました。

ふっと身体の力が抜けていく感覚がありました。
合点がいった。
A子の行動を読み切った。
いつにない充実感が心に満ちていました。
私は今まで何を怯えていたのでしょう。
A子はこれほどまでに単純な、ただの俗物なのです。
ひょっとすると、ここ最近の心情の浮き沈みは、そもそも私がA子に会う前に抱いていた創作への不安が原因だったのかもしれない。A子はただのトリガーに過ぎず、自分自身が少し弱っていただけなのかもしれない。
楓さんのように、強い心を持っていればここまで動揺することはなかったのではないか。
すっと心が軽くなり、一転して陽気な感情が満ち溢れてきました。

私はスマホを手にし、A子にメッセージを打ちました。

「ごめんごめん。今日、来てくれたってね? 先に言ってくれたら帰らないで待ってたのに。すれ違いになったみたいだね。ほんとごめん」

今ならA子を許せる。
そんな気持ちでした。
きっとA子は「そうそう! 会いたかった〜。用事があってライブに行けなくてごめんね〜」という類のことを上から目線で、ゴテゴテの絵文字を使って送ってくるのでしょう。
もう、すっかりA子を攻略できた、説明書を手に入れた。
そんな思いで私は返信を待ちました。

しかし、なぜかA子から返信はなく、既読にすらなりませんでした。

確認のために1時間に5回はLINEを開き、深夜までただ「既読」の文字を見たいがために起きていました。
数時間が経った頃、私はすっかり苛立っていました。
なんだよ、あいつ。
盗人だって知ってて、こっちから優しいメッセージ送ってやってるのに。
どうなっている。
暇なくせに。
スマホばっかり見ている俗物なくせに。
ベッドに横になり、スマホに充電ケーブルを挿しました。

やっぱり既読にならない。

ならない。

ならない

なりません

なるわけねーだろ

あたしだって暇じゃないんだ

あんたのメッセージなんか知らないね

あんたから盗った1万円は、全部無駄に使ってやったよ

尻を拭いて、ドブに捨てたんだ

ざまあみろ

てめえが稼いだ金の価値なんて、そんなもんだ

あんた、またあたしに飯を奢ってくれるんだろ?

あんたの悩み事、あたしが聞いてやるよ

だから、飯食わせろよ

そしたら、またクソしてやるから

また1万円盗ってやるから

あんたがあたしのケツを舐めていいんだぜ

そしたら、1万円は返してやるよ

でも、屁ぇ、ぶっかけてやるからな

そのまま殺して

てめえのギターで、犯してやるからな

「おい! おい! ちはるって!」

激しく身体を揺すられて、目が覚めました。
夫が心配そうに私を見下ろしていました。
「どうした?! 疲れてるのか?!」
「あ、ごめん。寝言うるさかった? なんか嫌な夢見ちゃって……」
「寝言どころじゃなかったって! ほんと大丈夫か?」
「え?」

「ちはる、大声で叫んでたんだぞ! ほんとに大丈夫か?! あ……」

再び私の鼻から血が流れだしました。
私は掛け布団がみるみる汚れていく様を、ぼんやりと眺めていました。

(つづく)

(7)エンディングテーマ John Waite"Missing You"



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