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「『怪と鬱』日記」 2021年3月29日(月):あるファンからのメール──愚狂人レポート(4)

なるべくA子の顔を見なくて済むよう、テーブルの上に寝そべった吐瀉物から店員へ視線を移し、助けを求めました。
この時の私は全く冷静ではなかったので、私の嘔吐が店内にどんな影響をもたらしていたのかは分かりません。恐らくは騒然としていたか、あるいは客のほとんどが見て見ぬ振りをしていたのではないかと思います。
数人の店員が私たちのテーブルへ駆け寄り、テーブルクロスごと吐瀉物を片付けました。私は、倒れそうになりながら立ち上がり、店員に手を引かれてトイレへ行きました。
幸い上着を一枚脱ぐだけで、身なりの汚れは目立たなくなりました。
水で顔を洗うと幾分すっきりはしたものの、細かい動きをするとまた吐き気がしそうだったので、朦朧としながらA子に財布を手渡し、私はすぐ外へ出ました。
もう財布のことなど放っておいて地下鉄駅へ向かいたい衝動に抗い、A子を待ちました。

「ちはるちゃん、大丈夫ぅ?」
俯いてもA子の足が視界の中にありました。
「ほんと、大丈夫ぅ?」

大丈夫ぅ?

大丈夫ぅ?

だいじょうぶぅ?

部屋に戻ると、それまで堪えていた涙が一気に溢れました。
ハンドバックを壁に投げつけ、ううう、と声にならない不平を漏らしました。
声にならないのも当然です。
私はそれをどう言葉にしたらいいのか、分からなかったのです。

A子に何かをされた訳でもない。
店長に何かをされた訳でもない。
私に対する悪意を持っている人は誰もいない。
そんな状況で、私は確かに被害者になったのです。
被害を与えたのは自分自身なのでしょうか。
それともA子なのでしょうか。
今ならはっきりと「A子のせい」であることを理解できますが、この時点の私は自分が悪いのだと思い込んでいました。
自分の心の弱さのせいで吐いたのだと、決めつけていました。
A子が私に過度のストレスを与えたことは事実ですが、もし私の心がもっと強かったら、どんな話をされても受け流すことができたはずです。
私がもっと良い子だったら、きっとこんなことにはならなかったのです。

「けだもの!」

私からやっと出た叫び声はそれでした。
そして、また泣きました。
泣いているうちに嫌なことをたくさん思い出し、さらに泣きました。

それからの数日を、塞ぎ込んだ気持ちのまま過ごしました。
元々、メンタルに自信がある方ではなかったのですが、何かあったわけでもないのにこれほどまでに落ち込みが長引くとは思っておらず、ただただ弱い自分を見詰めたまま、漫然と何をするわけでもなく部屋にいました。

やっと気持ちが幾らか落ち着いた頃、しばらく放っておいたスマホを確認すると、たくさんのLINEメッセージとメールが来ていました。
A子からのメッセージがあったらあの日のことを謝罪しようと思ったのですが、A子からのメッセージはそこにありませんでした。
一件着信履歴があり、見ると友人の玲香(仮名)からでした。
私は、はたと天啓を受けた気になり、勇んで玲香へ電話を掛け直しました。

玲香はイラストレーターで、歳は私と干支一回りより下なのですが、とても力強いパーソナリティーの持ち主です。
イラストだけで自活していて、フリーランス仲間の中でもトップクラスの稼ぎを持っています。
玲香と他のフリーランスとの違いは、彼女の徹底的に媚びない性格にありました。
仕事のためだからと自分を曲げず、自分の作品を常に「商品」と呼び、天真爛漫に生きる姿は仲間内でも羨望の的でした。旨味のありそうな案件を自分には合わない、やりたくないと蹴って蹴って蹴りまくって、それでも結果をどんどん出している様は天才のそれと言っていいでしょう。
玲香は経験も豊富で、私が今まで立ち会ったことがないような場面をよく知っていました。ここでは詳しく書けませんが、法律が許さないようなこと、暴力、人の生き死になどについても明るく、様々な経験を経ている故に彼女の世界観は揺るぎなくあったように思えます。

玲香はすぐ電話に出ました。
『おー。お疲れっす』
彼女は年上には必ず敬語を使います。
尤も、敬語を使っているからと相手を尊重しているわけでもないようで、物腰に騙されて痛い目に合った人もちらほらいました。
『玲香、ちょっと聞いてほしいことがあるのよ』
『あら〜。どうしました?』
玲香なら今の私の状態を理解してくれるのではないかと期待していました。
A子との出会いから嘔吐までの一部始終を、極力言葉を選ばずに話しました。
A子のことがどれだけ嫌だったか、A子がどれだけ醜かったかを思うままに表現しました。
もう玲香に嫌われても構わないとすら思っていました。
そうやって悪口を捲し立てると、驚くほどに胸が軽くなっていきました。
今まで抑え込んでいた「道徳的にはこうでなきゃいけない」「人として善くあらねばならない」といった自制を外すと、こうも気持ちの良いものなのかと痛感しました。
玲香は『うん、うん』や『えー、マジっすか』などと相槌を打ち、話を遮ることなく聞いてくれました。
私はそんな相槌を耳にしていると、くっと心が温かくなり、とうとうユーモアを混じえて笑いながら話を聞かせることができるまでに楽しい気分になりました。
『そりゃ、クルっすねぇ。A子ってヤバくないですか?』
『でしょ。そりゃ吐くよ。あたしなんて、ほんと弱いんだから』
『ちはるさん、ちょっと思ったんだけどさ』
玲香は話を仕切り直すように、少し声のトーンを落としてそう言いました。
『なに?』
『財布、確認しました?』
『えっ?』
 私は彼女が何の話を急にしだしたのか、理解できませんでした。
『財布ですよ。A子に財布渡したんすよね? その後、財布確認しました?』
『え? それってまさか』
『あたしの見立てだと、多分、盗ってますよ。金。そういう奴ってそういうことするんすよぉ』
まさか、とは思えない自分がいました。
玲香に通話を繋いだままにするようお願いをして、ハンドバックの中の財布を確認しました。
『ごめん、待たせて』
『どうでした?』
『まずレシートが入ってない。それであたし、何回も店に行ってるから分かるんだけど二人の会計を済ませたとしても、余分に1万円ほど財布から無くなってる。あなたの言った通りじゃん』
私は一万円を失った悲しみよりも、玲香の読みが当たったことに対する喜びを感じていました。
『でしょ。そう思ったんすよ。これね、多分……』
『多分?』
『A子本人に確認したら、クリーニング代でお店に渡したとか、クリーニング代をお店に請求されたとか、テキトーなことを抜かしますよ』
はぁぁ、っと息が漏れました。
『それで、お店に渡してないことがバレたら、今度は店員のせいにしますよ。店員が嘘吐いてるとか何とか言って』
頭の中でA子が言い訳をしている様子が既にあったことかのように、再生されます。
玲香の経験則が想像する未来は、見事に薄汚れていて、脳内で生々しく動いていました。
『しかしそれ、堪らんすね。で、どうします?』
『ど、どうするって?』
正直私は盗られた1万円など最早どうでもよく、むしろ神業のような玲香の幻視に夢中でした。
『あたしなら、バラしちゃいますね』
『バラす? ええと。お金を取られたこととか、店長との関係を? みんなに?』
私は食い気味でそう聞きました。
『違いますよ。そういう意味じゃないっすよ。バラすってのは──』

──殺すって意味ですよぉ

玲香のその言葉は、朝日より輝いていました。

(つづく)

(4)エンディングテーマ Howlin'Wolf "Moanin' At Midnight" 


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