「『怪と鬱』日記」 2021年3月23日(火):失言おじさんになりたくなくて必死

四十二歳ともなると、もう時代感覚とズレが生じてどうしようもない部分がある。
自分なりに努力をして、思考のアップデートをするようにしているが、そもそも時代の真芯を捉えてれている気がしないので、アップデートデータがこれで合っているのかも分からない。
これでは完全に時代感覚を取り入れていると胸を張ると、恐らく思い切り転んでしまう。転んで顔を真っ赤にしていては、とても恥ずかしい。

性・人種差別には反対だし、自分が理解できないものを頭ごなしに「悪い」と決めつけるようなことはしない。
それでも事後に「あれは差別的だったかもしれない」「もしかしたら、否定から入っていたかもしれない」と振り返って自己嫌悪に陥ることがある。
意識的な差別、意識的な否定というのはある種分かりやすく、根が浅く感じられる。
そういった人はそもそも、自分のポジションはここ、と自覚を持った上で暴言を吐く。そのポジションに立つことで経済的な利益を得る類の人はそのように振る舞っているに過ぎない。
そういったポジショントークはその人が利益を得られなくなったら終わる程度のものだし、目に余るようなら人権を武器に束でかかって弾劾することも容易い。

比べて最もタチが悪いのは無意識の差別、無意識の否定だ。
会話の中で急に数秒だけ現れる悪。
自分の中の常識を世間一般の揺るぎない常識と勘違いし、恐ろしくカジュアルに問題発言をする人。
どうしようもなく機械的に問題発言を世に放ってしまう輩。

対面してそんなことを言われた時、「ああ、悪気ないんだろうな」と解釈したとしても、その人が悪気なくそんなことを言ってしまうことに、悲しみを抱かざるをえない。
そしてさらに悲劇的なのは、大衆の意識が基本的に「そんな人」の集まりによって形作られていることであり、私も時折、「そんな人」になってしまっているということだ。
こういった無意識の悪は、意識的な悪と比べて圧倒的に数が多い。
無意識悪の集合体は根が深い。

こういった状態を形容するために、(あくまで自分を含めた上として)「愚民」「民度の低さ」などの言葉を使うのは簡単だ。だが、そんな言葉を強く叩きつけた所で、得られるのは反発のみだろう。「そういうお前はどうなんだ」と言われた時に、はっきりと言い返し、その後のしっかりと態度で示すことができる人が何人いるだろうか。

私は人間という生き物に諦念を抱いている。
いつまでも足並みは揃わないし、真の平和もない。
愛とは机上の空論で、具体性もはっきりとした定義もなく、実際のところ、この世のどこにも無いものだ。
「宣誓。我々はスポーツマンシップに乗っ取り」と大会前に儀式を執り行うには理由がある。スポーツマンシップという本来この世にない概念をわざわざ作って意識させないと、大会がめちゃくちゃになるからだ。そもそも節度を持ってできる人の集まりなら、正々堂々と戦う宣誓などしなくていい。
どれだけスポーツマンは野蛮なのだろうか。

愛と平和を謳おうが、私達の中の悪は消えることがない。
とはいえ、愛や平和を感じることがある。
目に見えないもの、ないはずのものを感じることがある。
だからこそ、ここまで生きている。
私もあなたも愚かである。
でも、たまには聡明だ。

私達の中の悪は消えることがない。
だがふと訪れる、互いが聡明な時間を大事にしていけば、せめて自分の世界だけはいくらかましにしていくことができる。

時代が悪を決める。
被害者が加害者を定義する。
時代を知り被害者の存在を認め、己の悪に向き合い、聡明な時間を手に入れようともがき、それでも転んだ時には沈黙しよう。
あとのことは子供たちに任せます。
それでいいです。

【今日の教訓】
Twitterで、勉強不足なのに頭の良いフリをしたり、何の実績もなく上から目線で発言したり、自分が他人からどう見られてるかを意識せずイキッたりするのはやめましょう。


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