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「『怪と鬱』日記」 2021年10月13日(水) あるファンからのメール──愚狂人レポート(29)

ボンベさんは、店長の言葉を耳にすると、くわっと口を開け、続けて喉からクックックックッと音を出しました。
爆笑もある限度を過ぎると、このような静かなものになるのでしょう。ボンベさんの顔は真っ赤でした。
玲香はそんなボンベさんと、複雑な表情の店長を交互に見ながら、ニヤニヤしていました。

「て、店長! よく分からないって! う、うわっはっはっはっ! なんで、腹が立ってヤッちゃうんだよぉ! 理解できないって!」

ボンベさんはその場の誰もが感じている疑問をストレートに呈しました。

「俺、昔からそうなんすよ……」

店長は緊張感のある声色でそう言いました。
私は、店長が苦し紛れの嘘を言っているのか、それとも真実として己の歪んだ性癖を吐露しているのか、判断に迷いました。
とにかく自分を正当化することを第一とする店長のことなので、嘘である可能性もあります。
その場合、「だから、しょうがないよね」と私達に納得をしてもらいたくて、出てきた嘘がこれだったということになります。でも言うまでもなく、私達がこれで納得するわけはありません。他人にはそれぞれさまざまな性癖があるものですが、この「腹が立つ異性を目の前にすると、その人と性行したくなる」と言われても、きょとんとしてしまいます。
まだ「かねて性行為をしたかった」「性行為をするチャンスを窺っていた」「好みだった」とシンプルな言葉を使った方が、我々は納得したと思います。それこそ、「まあ、人間だからね」と話が終わりそうなものです。
それなのに、店長はどうにかして自分を被害者と思ってもらいたいがために、「抑えられない自分の衝動を刺激したのはA子だから、自分には非がない」という、難しい言い訳をしたのです。
結果、この有り様となりました。
誰も納得していないことに輪をかけて、「こいつは本物のバカなのだろうか?」という疑問が、場を占有してしまいました。

尤も、店長の言い訳を嘘と決めつけるのもよくありません。
言葉には思いもよらぬ奥深さがあるものです。
店長は本当に「腹が立つ」と「性行したい」が鎖で繋がってしまっている人なのかもしれない。
ならば、ただの危険人物です。
いつか、婦女暴行で逮捕されてしまうでしょう。
私はそんな人と金輪際一切の関係を持ちたくありません。
店長は、精神科にでも行った方がいい、社会に重大な危険をもたらしかねない危険分子ということになります。

つまり、店長の言うことがほんとであれ、嘘であれ、どちらにしてもマイナス評価になる。やはり「腹が立ったからヤった」は無理があるのです。

入店からたった三十分程度、私はすっかり胸が悪くなりました。
男性二人の会話は段々とA子と無関係な雑談に変わり、私はなるべく彼らの会話を耳に入れないようにして玲香と近況報告をし合っていました。
そこそこにアルコールが進み、私の暗い気分が晴れた頃、ふと、それぞれの会話が止まりました。
ボンベさんの朗々とした声がはっきりと響きました。

「それにしても、店長さ。もし、ちはるさんとか玲香ちゃんに腹立つことされたら、どうなっちゃうの?」

「そりゃあ、もちろん──」

ここからの何もかもを、私ははっきりと覚えています。

「──ヤッちゃいますよ」

店長の下卑た口元が、今にも笑みを携えようとしていました。
私はビールグラスを思い切り、その顔に向かって投げつけました。
パンッと乾いた音が鳴り、花火のようにグラスが店長のおでこの周辺で砕け散りました。
店長は、雨が降ってきたか確かめるように、腰の辺りで両の手のひらを上にして「へっ?」と間抜けな声を上げました。
止めどない血が額から流れていました。
私はその様子を見ながら、ふうふう、と呼吸を荒くしていました。

死ね! 死ね! クソが! 死んでしまえ!

私は声の限りにそう叫びました。
店長はまだ「へっ? へっ?」と大量の血を顔から滴らせながら動揺していました。私の声は届いていないのでしょう。

私はそれ以上何も言わずに、ハンドバッグを掴んで店から出ました。
帰りしな、ちらっとボンベさんの様子を確認すると、満足気にスマホを店長に向け、動画を撮影をしていました。

外の空気は店内と一転して、とても澄んでいました。
地下鉄の駅に向かう途中、怒りこそまだ鎮まっていませんでしたが、どこか世界が変わって感じ、そのことが幾らかの幸福感を私にもたらしました。
なんだ、もっと早くからこうすればよかった。
自分が正しいとは思わない。でも、正しいか間違いかではなく、我慢できないことはすればいいのだ。
そして、正直に「腹が立ったからやりました」と言えばいいのだ。

「腹が立ったからやる」とはこういうことをいうのです。
店長のように言い訳として使う言葉ではない、もっと究極に追い詰められた人間だけが、罪を認めるときに発する言葉なのです。
きっと、今日中に警察から電話がきて、私は傷害罪で訴えられてしまう。
でも、もうしょうがない。
私は私を止められなかった。
いえ、止めれるのに、止めようとしなかったのです。
止めることに意義を感じることができなかった。
あの瞬間まで、良い子ちゃんでいたくなかったのです。

結局家に着くまで、警察はおろか、ボンベさん、玲香からも連絡はありませんでした。

マックを起動すると、アキラからのメールが来ていました。

『ちはるさん、この前のレコーディングをラフミックスしました。やっぱり凄いんで聴いてみてください。 アキラ』

添付ファイルをクリックすると、まずはギターのフィードバックが聞こえ、続いて女性の絶叫が聞こえました。
その絶叫は、今まで聴いたことのない、私の声でした。

(つづく)

(29)エンディングテーマ Sonic Youth"Death Valley'69(with Lydia Lunch)


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