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「『怪と鬱』日記」 2021年4月14日(水) あるファンからのメール──愚狂人レポート(15)

ボンベさんに会った翌日は一日中心が重く、パソコンを起動する元気も起きませんでした。途轍もない疲労感がのしかかっていましたが、ただ横になっていてみたところ時間の進みがやけに遅く、コンビニにでも出かけようと外に出ました。
水とガムを買って、近所にある小さな公園のベンチに座ると、初夏の陽光が髪の毛を暖めました。
これくらいの環境が考え事をするに丁度良い。私は自分が今後どうするべきなのかに思いを巡らせました。

私とA子はきっともう会わない方がいい。
会うメリットは一つもない。
真っ先にそんな発想が浮かんだものの、いや待てよ、と思い止めました。
少し前に、A子に勝たなければならないと決意した自分がいるのです。
しかし、あの決意はなんだったのでしょう。
勝敗が何で決まるのかもわからないまま、高揚感と共に決意をしたあの時の自分。
あの時。
A子に会ってからの私。
私。
もっと、もっと自分のことを考えないといけない。
もしかしたら、A子に会う前の自分がそもそもどこかおかしかったのかもしれない。
かつての自分を辿る。
でも。
あまり辿りたくない。
自分のことを考えるのが嫌いで、だからこそ音楽に打ち込めた。自分が作ったメロディやそこに乗る詞、より良く鳴るためのアレンジ、そこにだけ目を向けていれば、自分のことを考えなくて済む。
何をするべきか。何をしたらプラスに働くか。やらなきゃいけないこと。やるべきこと。どんなに疲れていても、私は一つ一つをやり遂げようと努力をしました。没頭するほどに自分のことを忘れられ、生まれた結果が自信に繋がりました。
一心不乱に自転車を漕ぎ、初めは狭くてぬかるんだ田舎道のようだった路面が、段々と綺麗になっていく。向かい風は段々と追い風になり、参道には応援してくれる人々も立ってくれる。自転車を漕ぐ。ペダルを踏む足を、とにかく止めずに漕ぐ。
私はきっと、疲れてしまっていたのです。
私は四十を過ぎています。ゴールが見えない、そもそもゴールがあるのかもわからないこの独走は、私が本当にやりたかったことなのでしょうか。
やりたかったのか、やらずにいられなかったのか。
私は自分に自信が持てない理由を、本当は知っています。
ただ、そのことについて詳しく書く気にはなれません。とにかく、死にたくなるほど辛い気持ちで生きていた時期があった、とだけ説明しておきます。
私はその気持ちから脱するため上京し、音楽活動を始めたのです。
ボンベさん、玲香と過ごしたあの時間、私は幾ばくかの疎外感を覚えていました。
どれだけ共感しようと、どれだけ共通の話題で盛り上がろうと、結局は本当の私を誰も知らない。今まで何度も経験した、ふと気が虚ろになる瞬間はあの楽しいひと時でさえ私に訪れたのです。
羨ましい。あの人たちが羨ましい。
私は羨望の芽が生えるたびにそれを毟り取り、自分の目が届かないところへ投げ続けてきたのです。
でも、それも限界です。
私は玲香の毅然とした振る舞いが羨ましい。
ボンベさんの道化然とした佇まいが羨ましい。
A子の。
A子の愚かさが羨ましい。
みんな、私を見て。
私を知って。
私はみんなみたいに、自分が何をしたいのか分からないの。
もっと、私を見てよ。誰か、私と手を繋いで。

溜まった澱を流そうとしたのか、自然と涙が溢れてきました。
こうなっては、考え事どころではありません。
グスグスと鼻を鳴らしながら、家に戻ると私を見た夫が「どうしたの?」と声をかけてきました。
「……なんだか、辛くて……」
「そっかぁ。俺、なんか役に立ちそう?」
「……うん。ありがとう。ちょっと、変な話していい?」
「もちろん」
「あの……私って……どんな人に見えてる?」

私は堰を切ったように弱音を吐きました。
今思い返しても、その時の私は我儘ばかり言う駄々っ子のようだったと思います。公園で考えたことを散文詩のように喚き立て、なんども洟を拭いました。
夫は「うんうん」と遮ることなく話を聞いてくれました。
「……結局、みんなは私のことを知らないと思うの。だって、今まで私、自分のことなんて見せてないもん。本当の自分なんて、見せてないんだから……」
ここまで話すと、ふっと脱力感に見舞われ私は言葉を止めました。
「うん。俺はちはるじゃないから完全にはわからなかったけど、何となくは言いたいこと理解した気がする」
「……なんか、ごめん」
「謝ることじゃないよ。一応は俺と一緒にいるんだから。全然こういう時に使ってくれて構わないんだよ。だから一緒にいるんだからさ」
「うん。ありがと……」
夫はふう、と息を吐きました。
「俺の意見、聞きたい? 聞いとく? イヤなら止めとくよ」
「ううん。聞きたい。念の為……。あたし、頑固だからちゃんと言う通りにできるか自信ないけど」
私は少し照れながら、夫が淹れてくれたコーヒーが入ったマグカップに口をつけました。
「ちはるは凄く自分のことがわかってると思うよ。よく考えてる。でも、一個だけおかしいな、って思うことがあってさ──」
私は夫が今から自分に対して否定的なことを言うのかと、身構えました。
この人にすら否定されたら、もう私には逃げ場がありません。

「──『本当の自分』って何回か言ってたけど、それって自分でどんなものか分かってる? 俺、そこがわからなかったんだよね。ううん。俺から見えるちはるは本当のちはる? 俺、嘘のちはると一緒にいる? 俺はそう思ったことがないんだよ。ずっと、本当のちはると一緒にいるよ」

「そのA子って人とボンベさんって人を俺は知らないんだけどさ。例えば玲香ちゃん。玲香ちゃんも本当のちはるを知ってると思う。だから、一緒に遊んでるんでしょ。玲香ちゃん、ちはるといる時は本当に楽しそうだもん。あの子、あれで割と気難しいじゃん。他にもちはるには良い友達いっぱいいるでしょ? そのみんなから見えているのが本当のちはる。それでいいじゃん。なんで、自分しか知らない、自分でも表現できないような自分を本当の自分に設定しちゃうの? そんなの他人からわかるはずないよ」

「ボンベさんっていう人も言ってたんでしょ? 『イメージが大事』って。じゃあ、俺とか玲香ちゃんとか、友達のことをイメージしてみようよ。みんな、ちはるのことが好きだから傍にいるんだよ。難しい? 今は無理って感じ? 無理ならそのままでいいけど、俺は本当にそう思ってるから」

「あとさ……A子ってのはもう付き合わないほうがいいよ。明らかに悪いトリガーなってるじゃん。聞く限りで、かなり酷いよ。そんな泥棒をよく許せるね。俺だったらキレてるよ。腹が立つ。玲香ちゃんとボンベさんに引っ張られる必要ないから。それ、本当のちはる? 自分でどう思う?──」

優しいような厳しいような夫の話を聞いているうちに、私は段々と冷静になってきました。
私の言葉が足りなかった部分を夫は想像で補ってくれているのですが、その補っている部分が、どこか私の認識とズレているように感じられました。
「本当の自分」に関するくだりは確かに納得がいきました。そもそも、私は自分の考えをぺちゃくちゃと垂れ流すタイプではありません。思ったことは言葉を選んで話すようにしています。選んだ自分も「本当の自分」だと捉えれば、乖離はないと解釈できます。
ただ、そんなシンプルな話ではない、と夫に抗いたい自分がいます。
理詰めでどうにもならないから悩んでいるのです。
玲香が私のことを好いているのかどうかの判断も、私が玲香の本心にベットするかどうかに委ねられているだけということでしょうか。
人間関係とはそんな曖昧なものなのでしょうか。

「──時折、自分を信じられなくなることは誰でもあるよ。俺だってある。でも、他人を信じることは止めないようにしないと、やり切れなくなっちゃうよ。もう底無し沼。そんなの怖いよ」

夫は私の声なき声を聞いたかのように、そう言いました。
私は「それは……確かにそう……」と納得しつつ、ふっと夫との対話がこれ以上無駄に思えてきました。
というのも、なんだか面白くなかったのです。
本当の自分が、この時間を拒絶してしまいました。
「うん。あんがと。もう大丈夫」
そう言い、私はマグカップを手に立ち上がりました。
「おーい。とにかく休め!」
夫の朗らかな声を背中に貼り付けて、私は自室へ引っ込みました。
絶対にA子と付き合ってやる。
綺麗事なんてうんざり。
やっぱり私は孤独だった。
でも、こんな風に拒絶したいものを拒絶できるなら、孤独も悪くないのかもしれない。素直に拒絶させてくれる夫には感謝しなければ。
拒絶、思考停止、我儘、衝動、欲望。
これだけで生きていけるなら、きっと楽だ。

「あ」

A子はそうやって生きている。
道徳と法律を超えて、A子はそうやって生きている。
A子のように常に「本当の私を見て!」と現れれば、私たちは常に本当のA子を見ざるを得ない。
でも、彼女は私のような悩みを経てああなったわけではない。
あれは私ではない。
私はあんな風になりたいのか。
羨ましい。
わけがない。
あんな風にはなりたくない。
あれは、私ではない。
玲香もボンベさんも、私ではない。
ボンベさんは玲香ではなく、玲香はボンベさんではない。
「私と他者」という二分立に拘り過ぎていた。
鎖がバラバラに砕け散る。
私の自転車はピカピカだ。
きっとまだ走れる。

──ちはるさんは、面白いですよ

ボンベさんの言葉は、きっと本当の私を表している。
イメージ。
自分をイメージする。
まだまだ。
まだ進める。
ゴールなどなくてもいい。
ペダルを踏むのが楽しいのです。
いよいよ。
いよいよ面白くなってきました。
私は正気を取り戻した。
あるいは完全に狂った。
いずれにせよ、これが本当の自分です。
私はリビングに飛び出し、夫に熱烈なキスをしました。
夫は「ちはる、イカれてんね」と弱々しい声で言いました。

(つづく)

(15)エンディングテーマ Prince&The Revolution"Kiss"



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