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「『怪と鬱』日記」 2021年8月20日(金) あるファンからのメール──愚狂人レポート(28)

地下にある「オメガ」に続く階段を、ボンベさん、玲香に続いて下りました。
ボンベさんが赤い防音扉を開けると、「お。おおおお。ボンベさん! あっはっはっはっは」と店長の声が響きました。
玲香は「お久しぶりです」と満面の笑みで言い、私も「どうも〜」と小さく一礼しながら言いました。
「いやいや。久しぶりぃ。座って座ってぇ」
ドリンクカウンターの中にいる店長は洗い物を中断し、手を拭きました。
ここまでで一度も店長と目が合わないのは、私のせいでしょうか。
「ううん。店長、どうよ? 調子は? あははははは」
ボンベさんのその口調には多分に含みがありました。

「どうもこうもないっすよ。知ってるでしょ?──」

その時、店長は無理に笑顔を作っているようでした。

「──お前らも、知ってんだろ?」

店長は並んでチェアに座る私と玲香に、少し声のトーンを下げてそう言いました。
私はお前に「お前」と呼ばれる筋合いはない、と心の中で思いながら、「有名ですからね……」と答えました。

「あははははは! いや! 凄いよ店長! ほんとマジで凄いから! もう、何かのプロだよ。普通できないことを成し遂げてる。尊敬はしないけど、自分にはできないことをできる人って感じだなあ」
ボンベさんは店長の顔を見て、ケタケタと笑いました。
「いやあ。あいつ、マジでキチガイっすよ。マジで。キチガイだって分かってたんだけどなあ。ええ。こうなっちゃいましたよ。参りましたよ」
私は、店長がボンベさんの軽いノリに便乗して、深刻度を下げるつもりでいることが手に取るように分かりました。
「いやいや。ほんと、キチガイだよね。俺から見たら、店長も大概だけど……ぶはははは! 俺、そんなには知らないから、もうちょっと詳しく教えてよ」
玲香が私の肘を突いて、店長が差し出したグラスビールを捧げ持ちました。
恐らく、ここは意に介さないふりをしてボンベさんに任せよう、という合図です。
私もウーロン茶の入ったグラスを持って乾杯しました。

「ボンベさん、どこまで知ってるんすか?」
「ええ? どこまでって……なんか、暴露動画がなんとかって……。その動画もちょっと見たけど……俺さ、こういうのって、ネットの世界にちょいちょいあるけど……ちょいちょいあるけどさ! やっぱり、双方から話を聞いて、事実関係をクリアにしないとダメだと思うんだよ。一方の話だけ聞いて、それを事実としてしまうなんて、愚の骨頂だと思うからさ。まあ今回のことも、店長がヤッたことは事実としてもさ……ふふふ……ああ、ごめん。笑っちゃった。ヤッたことは事実だとしても! 店長の言い分もあるでしょ。だから、その辺を聞けたらなって思ってんだよ」

ボンベさんは芝居がかった真剣な口調を時々乱しながら、一気に要点を言いました。

「うーん……どこから話せばいいのか……あいつ、バカでしょ?──」

私たち3人は、一斉に首を縦に振り、話を促しました。

「──バカ過ぎて、腹が立つんすよ。それで、腹立つなあって思ってたら、ついヤッちゃったんすよね……」

店長が初めてA子にあったのは、2年前。
小さなライブイベントの客だったA子は、次第にバー営業の日にも顔を出すようになっていったそうです。(弾き語りをするようになったのはここ最近とのことでした)
A子は1人で来店することもあれば、複数人で来ることもあった。
A子の連れには、気さくで感じが良い若者もいれば、口数の少ない不気味なおじさんもいて、どこで交友関係を広げているのかは不明だが、A子いわく、皆が「友達」。
店長はA子とコミュニケーションを重ねたのち、彼女が何を言っても怒らないタイプだと判断し、冗談混じりに「頭が悪い」「ブス」などと罵声を浴びせながら、周囲の客を盛り上げるようになりました。

「こっちとしては仲が良いつもりもなかったんだけど、あいつ、閉店してからも帰らないようになってきてさ。『洗い物手伝います』とか、『片付け手伝います』とか言いやがるの。こっちとしては、まあ奴隷みたいにこきつかっておきゃラクだしなって、そのままにしてたんすよね」

そうして、A子はほとんど店長の言いなりになった。口にこそ出さなかったが、店長も完全なる無遠慮でも懐いてくるA子との時間が心地よかったのだろう。
店長はかねてから「悪食」と呼ばれていて、あまり女性のルックスを性行相手の選出基準に持ち出さない傾向にありました。
以前、誰かとの会話で店長が「来るものは拒まず」と言っていたことを、私は思い出しました。

「そんでね。ある日、バー営業中にあいつ本当にバカなことを言ってたんすよ。何だったかな……。『犯罪者は全員、頭が悪いから死刑にした方がいい』って言い出したんだ。それで、その場にいる人がみんなで『いや、犯罪者の中には色々複雑な事情がある人もいれば、先天的に問題がある人もいる。それを裁判で判断して、適切な裁きを決めることが大事だ』って諭しても、ずっと反論してたんすよ。もちろん、すげえバカなことを捲し立てて。俺が『じゃあ、お前の頭は悪いから、死刑だな』って言っても、ニタニタ笑ってたんすよ。気持ち悪かったなあ」

すっかり盛り下がった場の雰囲気に、店長は激しく苛立った。
しかし、A子のバカを一朝一夕に正すことなどできない。

「それでね。閉店後に──」

ボンベさんの「うん」という軽い相槌が、私にはやけに大きく聞こえました。

「──店でヤッたんすよ」

(つづく)

(28)エンディングテーマ Marvin Gaye"Mercy Mercy Me"



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