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「『怪と鬱』日記」2021年7月23日(土) お茶の間の「ロスト・ハイウェイ」

デヴィット・リンチ監督作品「ロスト・ハイウェイ」の脚本は、当時殺人容疑を掛けられていたO・J・シンプソンがゴルフをしている姿を、リンチがテレビで見た時に感じた思いから作られている。
リンチは「もしかしてこの人は、自分が殺人をした記憶を完全に消しているのではないか」と思いながらO・J・シンプソンが楽しそうにゴルフをする様子を見たのだそうだ。

そういうわけで「ロスト・ハイウェイ」は前半と後半でまったく違う人間が「同じ人」を演じる奇妙な作品になった。記憶を消したことで、主人公はまったく違う人になりまったく違う人生を歩むのだ。

初めてこの同作に関するエピソードを知った時は「流石リンチ、独創的だ」と思ったものだが、ある程度大人になり様々な人と触れ合っていくうちに、この「記憶抹消」あるいは「記憶の書き換え」と呼べるものがお茶の間レベルにも存在していることに気がついた。

あなたの周りに「ちぐはぐ」な人はいないだろうか。
普通ならある程度記憶が線として繋がっているが、その人の頭の中には「点の記憶」だけが散乱していて、どうも同じ時間軸、現実を生きている気がしない。
その人は「他人が見た自分」と「自分が思う自分」の乖離が大きい。
その人は「なりたい自分」のように振る舞うが、その自分にはまったく成れず、「思い込んだ自分」を日々演じている。

「約束は守る」と言った五分後に約束を破り、「そんなことはしない」と言った二分後にそんなことをする。
一事が万事その調子でいるため、当然著しく評判は悪いし、トラブルも多い。
が、まったく反省しない。
そして、その様子がまるで悪魔のように映るならば、善悪の二分立が他者に発生し自然淘汰が始まりそうなものだが、その人があまりに即物的で打算が見えにくいため、「悪」の側の人間とは認識されずにいる。
その人と関係を持つことができる優しい周囲の人々は、その人を「素直」と表現するのだ。
故にその人は、ずっとそのように生きて、あなたの隣にいることができる。

なぜその人が「素直」に見えるのかで、「ロスト・ハイウェイ」につながる。
「記憶の書き換え」があるのだ。
その人は運転ミスで人を轢いている。だが、即座にその轢いた事実を消している。
「轢いた?」と聞かれても真っ直ぐな目をして「轢いてないよ」と答えることができる。
轢かれた方は轢かれた事実がある世界で生きている。
轢いた方は轢いていない事実がある世界で生きている。
その人の周囲にいる優しい人々は「轢かれた」と訴える人の言葉よりも、「轢いていないのに、轢かれたと主張する厄介な人に絡まれて困っている」という声に耳を貸す。恐ろしいことに、その人の周囲には愚かさを糾弾しない「優しい人々」しかいない(その人の害毒に気づいた人は去っていく)ので、このシステムが成立してしまう。みんなで一人の化け物を作り上げている。
「優しい人々」は人間関係のトラブルは二者以上から起きるというのに、何の確認もせずに一者の言葉を全て受け入れ、「大変ですね。応援してます」と安直な言葉を掛ける。優しさと愚かさの両立ほど、世を歪めるものはない。
これがその人の被害者意識をより強固なものにし、ねじ曲げられた記憶に真実味を持たせる。
自己催眠は一生解けない。

「それは自分がおかしいんじゃない?」と声を掛けた時に、まったく繋がらない話を勢いよくまくしたてるのは、防衛本能が地獄の釜が開かないようにしているからだろう。

道徳心の欠如、思考能力の低さを露呈する反面、防衛本能からか意図的に「優しい人々」だけを周りに置こうとする目ざとさも垣間見える。
浅はかな言動、嘘を吐く。他人が嫌がることを、自分がそうしたいからと行う。
やられた方は、その人を大嫌いになるか、関わりたくないと離れる。

とにかく事故る。
また、また事故る。
事故った記憶は全て消す。
これを一生繰り返す。

その人生には点しかない。
恐らくその人が持つ人生の記憶は、ほとんどが事実ではない。

そんな人がいる。
そんな人があなたの隣にいる。
その人の目をじっと見ると、そこに光がないことに気がつく。
いつでもあなたの存在を消すことができるその目に、光は必要ないのだ。

その人が記憶を消した後にボリボリと食うお菓子は、どんな味なのだろう。
あなたの隣にいるその人は、今日もゲップと屁にまみれて、高笑いをしている。



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