「『怪と鬱』日記」 2021年3月20日(土):娘に怒るフリをした

本日はとても体調が良かった。
原因は不明。
住倉カオスからは「気圧じゃない?」とLINEが来た。

しかし鬱生活半年になろうかという私は、単に躁状態である可能性も考えて仕事はある程度で打ち止め。
「治りかけだ! よし、社会に混じるぞ!」と意気込んで、その翌日からぐったりと三連欠勤をした経験が何度かある。
こんな時こそ余力を残し、調子に乗らないことを心掛けた方がいい。

直近の怪談仕事はこれ。

私は怪談の朗読をする予定。
朗読は初めてなので、楽しみです。

このイベントが終わったら、また次の仕事、その仕事が終わったらまた次の仕事。
売れっ子ではないまでも、小さな仕事がちょぼちょぼと。
まだ秘密だけど、いろいろと多方面の活動も。

青森も日中に暖かい時間帯があるようになった。
こうじゃないと、始まらない。
昨年中止になった弘前桜祭りも今年は開催される。
会社の窓から弘前公園が見えるので、祭りよりそっちが楽しみだ。

京都で暮らしていた頃、警備員のアルバイトをしていた。
どこかの公園(場所などはまったく記憶にない)の「ツツジ祭り」の警備に当たった時、車椅子に乗る一人の老婦人とこんな会話を交わしたことがある。
「ああ、綺麗なツツジだわ」
「ええ、そうですね」
「私はあと何回見れるか分からないから、ほんとに綺麗に見えるのよ」
車椅子を押していた女性がその老婦人の娘か親戚か分からないが、そんな会話を黙って寂しそうに聞いていたことを覚えている。聞くと年齢は九十を超えているとのこと。
当時二十代前半だった私には正直ツツジの美しさが分からなかったが、いかにも余命十年もなさそうな老婦人からしたら、死ぬまでにあと何回見れるか分からない花だ。
この人はツツジに希少価値を見出している。
それはさぞ美しかろうに。
納得がいくと同時に、自分の命もまた有限であることを思い知らされた。
この老婦人との会話は余りに衝撃的で、今でも季節の移り変わりを感じさせる物事を目にするたびに思い出す。
私も四十二歳になった。
早死にしたら六十、いや、「早死にしたら」という仮定をしたことすらナンセンスだったというほど早く死ぬこともあり得る。
私はあと何回桜を見ることができるのか。
そう思って見る花弁がとても愛おしい。
ぼんやりと生きているのもいいが、ここぞという時にはキリッとしなければ。
美味しいものを食べ忘れる人生は、あまり送りたくない。

娘が買ってもらったオモチャを大事にしなかった系の出来事があったので、怒ったフリをする。
子育てにおいて、怒ったフリしかしたことがない。
子供に対して本当に怒る必要性を感じたことがない。
本当に怒った時に、正しいことを言える自信がない。

明日はどっちだ。


皆様からのサポートで私は「ああ、好きなことしてお金がもらえて楽しいな」と思えます。