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「『怪と鬱』日記」 2021年3月27日(土):あるファンからのメール──愚狂人レポート(3)

サルーテに入り、店員に予約済の旨を告げました。
通されたテーブルは店内のほぼ真ん中で、私とA子を取り囲むように他の客が食事をしています。
サルーテは中規模のレストランでそこそこのテーブル数を有しています。
普段は他人の目を気にしたりはしませんが、その時ばかりはA子に視線が集まらないかと不安でした。
私は店内にいる人々を一瞥した後にA子を見て、彼女の一風変わった雰囲気を否応なく感じていました。

店員が水とメニューを持ってきました。
私はA子に「なんでも好きなの頼みなよ」と声を掛けました。
A子は「え。ほんと。ありがとう」と妙にはっきりとした声で言い、メニューを開きました。
私もメニューを見て、何を食べようかと考えました。
「ねえねえ。ちはるちゃんってお昼からお酒飲んだりする?」
またはっきりとした声で、A子が言いました。
「うん。飲む時もあるよ」
言いながら顔を上げると、A子がとても真剣な眼差しでメニューを見ていることが分かりました。
まるでメニューに己の出生の秘密が記されてでもいたかのように、メニューの右左、めくっては右左、たまにページを戻しては右左と確かめています。
「今日も昼から飲む系?」
A子はメニューから目を逸らさずに言いました。
「飲みたい? じゃあ、頼みなよ。私も頼もうかな」
A子はその言葉を合図にパッとドリンクメニューを開き、
「まずは、ビールっしょ」
と今度は随分とぼやけた口調で言いました。
私しかいないので、恐らくは私に向けて言っているのでしょうが、それは独り言のように響きました。
そして、「まず」と言ったからにはA子が2杯以上飲むつもりでいることが分かり、また自分の心が少し淀んだ気になりました。
グラスビールで乾杯してしばらく後、A子が頼んだボンゴレとチョリソーの盛り合わせが先に来ました。
ほどなくして、私が頼んだサラダとほうれん草のパスタが来ました。
2人でそれらを食べながら、ここ2週間で互いが出した情報を糸口に会話をしました。
ほとんど記憶にありませんが仕事、趣味、共通の知り合いの話などを当たり障りのない程度に話したと思います。
A子はフォークを使うのがとても下手で、パスタを口元に持っていくとまるで麺1本1本が意思を持っているが如く、ほぼ全てが逃げるように下に落ち、綺麗に皿に収まっていきました。
あまりに何度もそんなことが起きるので、私が「もしかして、こういう時、箸派?」と質問すると、当の本人はパスタが下に落ちていることに何の違和感、劣等感を覚えていなかったようで、「えっ?」と困惑した表情を浮かべました。きっと彼女の中では「パスタは大量に下に落ちるもの」と認識されているのでしょう。

また、A子と食事をしている時に強く感じたのは、彼女の咀嚼音の大きさでした。
噛む時には口をちゃんと閉じているし、パスタがほとんど落ちるので一口に数本しか放り込まれないのですが、なぜか、むしゃむしゃ、という音が大きく響くのです。
初めは気のせいかと思ったのですが、チョリソーを口に含んでからの、ぽりぽり、という音もやはり大きく、何をどうしたらそんなに大きな咀嚼音を出せるのかまったく理由が分からず不安になりました。

色々とネガティブに思うことは多々ありましたが、それでも会話のラリーを続けている間に、私たちの距離が縮まっていくのを肌で感じました。
たまには同じタイミングで笑い、たまには「分かる」と言い合い、ごく普通の友人との会話という様相が、いくらか出来上がってきます。
話題のテーマが「音楽活動」に移った時に、私は「この前のライブは大変だったね。あれから店長に会った?」とあの白目ステージの日について尋ねました。
今の距離感なら、触れても大丈夫であろうと思えたのです。
するとA子はふと遠い目をしてから、

「店長さ。最近、抱いてくれないんだよね」

と言いました。

げぇっ!

私は思わず大声でそう叫んでしまいました。
余りに大きな声だったので店内が、すん、と静まり返り、他の客たちの視線が私に集まりました。

ぼり ぼり ぼり

A子は店内の雰囲気の変化にまったく気がつかないまま、咀嚼音を響かせています。
「A子ちゃん、店長とそういう関係なの?!」
私はもう周囲の視線など意に介している場合ではないと、真正面から大声で質問しました。
それに対して、A子はなぜか一度俯いて、にたぁ、と笑顔を作り、再び顔を上げるタイミングに合わせて「うん」と言いました。

私はライブハウス「オメガ」(仮名です)の店長に、20代前半から世話になっています。
店長はこれまでにライブのコツや自分の売り方など、さまざまなアドバイスを私にしてくれました。
時に厳しく辛口、でも奥底にある優しさが店長のチャームポイントで、そこに惹かれた当時の私を含む多くのミュージシャンの卵が、今も店長を慕っているのです。
少しやんちゃだけど、みんなの兄貴分。
それが店長のイメージでした。
確かに女癖が悪いとは噂で聞いていましたが、ロック上がりの店長ならそれもしょうがないと思っていました。
独身なのですから、いつ何時、浮世を流そうと誰に咎められることもありません。

でも、です。
A子はあんまりです。
それは流石に「ない」です。
何がどうなったらそうなるのか、理解が及びません。
これがもし、見ず知らずの男性とA子が性行したというエピソードなら、まったく驚くことはありませんでした。
世の中には色んな人がいるな、と私はそのエピソードを好意的に受け止めることができたはずです。

しかし、あの。
あの店長がです。
人間とは何か、社会とは何かを全て知っているような口振りの店長。
曲がったことを許さない店長。
時には相手が泣くまで間違いを指摘し続ける店長。
これまで私が店長から貰った叱咤激励の言葉、アドバイス、辛口のお悩み相談など思い出の全てに、バケツ一杯の糞便をかけられたようでした。
どの口が偉そうに喋っていたのでしょう。
店長はいつしか(いえ、初めからなのかもしれません)、世間も社会も知らず、曲がったことをして、大きな間違いを犯しながら、イキり倒しているだけの小人物になってしまったのです。

ぼり ぼり ぼり ぱきゅ むしゃ むしゃ むしゃ

私が絶句している間にも咀嚼音が鳴り続けました。

ごきゅ ごきゅ ごきゅ

A子の前に置かれた皿の上にはアサリの殻と食い掛けのチョリソーがありました。

堪らず私は、テーブルに嘔吐してしまいました。

(つづく)

(3)エンディングテーマ Painkiller"HanDJob"



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