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「『怪と鬱』日記」 2021年4月19日(月) あるファンからのメール──愚狂人レポート(16)

A子は先頭をきって階段を上がり、店のドアを乱暴に引きました。
女性店員が「何名様ですか?」と玲香に訪ね、彼女が指を三本立てて答えると、私たちは窓側の丸テーブルに通されました。

玲香はグランドメニューを先にA子に手渡し、私とドリンクメニューを確認しました。ボトルワインにするか、生ビールにするかを二人で相談していると、調理服を着てコック帽を被った若い男が現れ、玲香に挨拶をしました。
「いらっしゃいませ、玲香さん。なんかサービス出しときますよ」
「おお。期待してるね。タクマくん」
「任せてくださいよ。俺を誰だと思っているんですか。あはは」
玲香の砕けた口調から、タクマくんと呼ばれたこのコックは恐らくは玲香よりも歳下なのだろうと察しました。
「なんか良いワインある? 辛口の」
「玲香さんより辛口なのはないですけど、良いのあるか見ておきますね」
若いコックはちょっとしたやり取りにも愛嬌があり、いかにも「愛される後輩」然としていました。
「食べきれない分だけ出しちゃうかもしれませんよ。お友達とみんなで来てくれて嬉しすぎっす」
「気持ちはいらないから、肉と酒を! あはは」
彼がテーブルに横に立っている間A子は一言も話さず、ナンパされかけた時にもしていた、「顎を引いて目を大きくした顔」でタクマくんを見ていました。しかし、その形相で見られたタクマくんは玲香と私を交互に見ながら話しかけるばかりで、ついにはA子を一瞥もすることがないまま私たちのオーダーを受けると、笑顔で厨房へと戻っていきました。
「友達の後輩っす。サービス期待できますよ」
「玲香、顔広いね。助かる」
A子はグランドメニューの中からオススメと記載されていたものを何品か、私たちはつまみになりそうな料理を注文しました。
「……あの坊ちゃんは、人見知りするんかね?」
A子のタクマくんに関しての発言はたったそれだけでした。
どうやら無視されていたことは伝わっていたようです。
「どうっすかね」と玲香が返答しましたが、A子はそれに対して何も言いませんでした。

次々と料理がテーブルに並べられ、酒盛りが始まりました。
相変わらずA子はナイフとフォークを上手く繰ることができず、コーンを落としたり、肉を切断するのに苦戦していましたが、仮にしっかりと切れていなくとも最終的に肉に顔を寄せて齧り付くので、パスタを落としまくっていた「サルーテ」の時ほどは気になりませんでした。
玲香はアルコールが入るほどに上機嫌になり、しきりにA子に話しかけては「わかる、わかる」と相槌を打っていました。
「玲香はまだ若いからわからないだろうけど」
「玲香ももう少し、経験を積めば」
「私だったら、こうするように気を付けている」
A子のそういった上から目線の物言いが何度も披露され、中には「目からウコロだでしょ」「キクラゲって、深海魚の背ビレだと思ってたわ」「雪男って絶対に実在するから」など、訳のわからないフレーズも飛び出していましたが、それでも玲香は「わかる、わかる」と言い続けていました。
私は言葉の端々から、A子は「自分がこの場で一番の年上である」ということに絶対的な優位性を感じていることに気が付きました。
玲香の柔和なスタンスも相まって、初対面の二人はとても良い湯加減の関係性を築いていきました。誰もA子の言葉を制する者がいないその場には善悪も成否もなく、退廃と知性の放棄だけがありました。
玲香はどんどん問い掛けをエスカレートさせ、A子の男性観や恋について、性事情に関してなど、話題はどんどん生々しいものになっていきました。

「あたしは店長が一番好き。あの人はほんとあたしをよくわかってくれるから。乱暴だけど優しいし、何度も好きだって言ってくれたからね。ほかの男はダメ。なんで、男って身体ばっかり求めるのかね。ほら、あたしってモテる方じゃん。実際はモテたくないんだけど。ほら、なんて言うか。あたしって、こんな感じじゃん? だから、男が寄ってくるのよ。でも、あたしとしては好きな男にだけ愛されたいから。身体だけの関係とかってマジで嫌いだわ」

「店長と別れたあと? うん、何人かとそういう関係はあったけど、でもあたしは一途だから、店長一筋かな。ただれた関係はほんと勘弁してほしい。やっぱり愛されたい……。え? うん、何人かとはヤッたよ。出会いは多いから。だって、ほらステージ立つ商売だから。え? 音楽の収入? それってファンの人から金もらうのも込みで勘定したらいいの? CDとかは売ってないよ。ライブはたまにしかしない。音楽って気持ちが大事だから。金儲けで音楽はやりたくないよね。何? ファンの人からどうやってお金もらうかって、そりゃ、あっちが『あげる』っていうからもらうんだよ。ああ、うん。ファンの人とヤッたことあるよ。ちょっと前もヤッたよ」

「ちはるは……そうね。せっかく人に伝える能力あるんだから、まだ伸び代あるよね。あたしとちはるは、うん。もっと伸びるよね。あたし達は、まだできるわ。玲香は若いからまだわからないだろうけど。あたしとちはるみたいなミュージシャンは本物だから。ちはる、今度一緒にあたしとやってみる? え? やったらいいじゃん! わははは! どうしたの、顔真っ赤にして! A子様とやるの緊張する? 結構、学べると思うよ」

A子の独善的な語りに玲香はますます上機嫌になりました。
ブフッと吹いたかと思うと、真顔を作って「うん、うん」とA子に首を縦に振り、またケラケラと笑ったあとに同意を示したりと、大忙しです。
私はそんな玲香のリアクションのお陰か、A子に対して不愉快や怒りを感じることはなく、終始驚愕していました。
これまで何度も体感してきたその独善性や無理解、一切の内省がない態度の異常さに慣れることはなく、繰り返し訪れる既視感とアルコールのせいで、自分も段々と躁状態に入っていきます。
どこを切ってもA子。
矛盾していることをまるで当たり前のように話し、正しいのは自分。
誰かの話を聞きたいわけではなく、ただ自分が話したいだけ。
只酒、只飯は美味。
何も遮らない年下の二人を目の前にした女王。
間違いなく間違いを導きだす機械。
無限に汚物を放り出す機械。
この時間の意味は何なんだろう?
私は今、何を得ていて、何を失っているんだろう。
なぜ私はこんなに高揚しているんだろう。
何も。何も生まれない会話。
私たちは肉を食い、鳴く動物になっていました。

「あー、楽しかったっす。自分、今日はこれから仕事あるんでそろそろ解散しますか?」
テーブルの上が大体片付いた頃に玲香がそう提言し、私と玲香はA子をテーブルに残してレジへ向かいました。どっしりと椅子に座り、ワイングラスを片手にスマホを見るA子は、会った時よりも随分頬が垂れ、ジャバ・ザ・ハットのような様相を醸していました。

会計を済ませていると再びタクマくんが現れました。
「玲香さん、ありがとうございました」
「ああ、こちらこそありがとうね。サービス、ちょっと残しちゃった。ごめん」
「いえいえ。あれ全部食べきれたら大したもんですよ。わざと多めに出しましたから」
タクマくんは会計をする店員に、レシートを指差しながら何事かを話しかけ、結果驚くほど安い支払いで済みました。
「お二人は、でもほんと優しいっすね。俺も親戚で先天的に障害抱えている男の子いるんすよ。お二人を見て、もっと優しくしようって思いました」
「え? 何?」
私たちは声を揃えて驚きました。
「ああ……すみません。差別的な物言いしちゃってました? こういう時にどうやって言ったらいいかわからなくて。でも、感動したんですよ。自分も店を持てたら、ああいう知的障害を抱えている人が気軽に来店できる店を作りたいなって思ったんです。お二人みたいな先輩がこういう背中見せてくれると、俺も学べます」
私たちは言葉を失ったままゆっくりと振り返り、A子が座るテーブルを見ました。
A子はいつからか、にたぁ、と笑いながらこちらを凝視していました。
「え……」
その日初めて、玲香が頼りなさそうな声を出しました。
タクマくんがA子に目礼すると、A子はまた顎を引いて目を大きくしました。

(つづく)

(17)エンディングテーマ Popacid"I'm Not In'92"


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