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「『怪と鬱』」日記 2021年4月8日(木) あるファンからのメール──愚狂人レポート(11)

「──蝶の羽ばたきが世界に影響を及ぼすって話、知ってます? バタフライ効果っていうんだけど。簡単に言うと、何かがエネルギーを出しちゃったら、何かしらそれに影響されるってことなんすね。実際に蝶がそんなに強い影響を及ぼすかって言われたらアレなんですけど、でもそんな考え方が成り立つって言われてるんすよね。これはあくまで物理学の話なんですけど、ちょっと応用させてもらって……人の動きってなると、そりゃあもう世界に影響与えまくりっすね。話の流れで言えば、A子なんてエネルギー出しまくり。蝶の羽ばたきどころじゃない。でもこれに関しては私たちもそうなんすよ。あたしがどんなもんかは分からないけど、ちはるさんなんて音楽やってるからエネルギー出しまくりっすね」

「あたしは社会ってのはいかにバタフライ効果が生まれるかのバランスで保ってる部分ってあると思ってるんすよ。他人の心の動きなんて分かりっこないけど、行動と言動としては発露されますよね。何かするにも、何もしないにも理由がある。でも理由ははっきりとは見えず、誰かの動きが誰かの動きを呼び、結果に連なる一連が生まれる。社会って壮大なピタゴラスイッチと伝言ゲームみたいなもんとあたしは思ってるんすよねえ」

「流行ってる店の行列なんて見ると、ああ、みんな上手くやってるな、って思うんすよ。早く飯食いたいだろうに、ちゃんと空気読んでるな、我慢してるな、って。でも、行列って見てて嫌になるんすよね。なんていうか……面白くなくて。あたしの言ってること伝わります? 予定調和っていうか。みんな本心とは違うことをしてるっていうか。でも社会のため、バランス良くするために全体を取ってるわけだから、あれで良いってことは知ってるんですけど。でも、あたしがそれを面白くないって思ってるのも事実で。並んでる人も、できれば並びたくないでしょ。当たり前ですけど。あたし、ダルいのマジで嫌いなんで」

「で、ここでA子なんですけど。A子は多分、行列に並ぶと思うんです。その辺は保身のためだったり、なんなら頭が悪い感じの『行列ができる店に来れて、並ぶって楽しいな』レベルで盲目的に並ぶはずですよ。でも、横入りのチャンスがあったらすぐ横入りするでしょうね。例えそれが、物凄い薄いチャンスだったとしても、ニタニタしながら前の方にヒュッと入りそうじゃないですか? ここで仮定としてその横入りが誰かにバレたとしますよ。ってか、A子はバレる濃厚ですね。さて、ここでその横入りを見つけた人が『A子に注意する』という行動をとったと想定してみます。この時点で、他人に影響を及ぼしちゃうんですよ。そんなに突飛な想定じゃないですよね」

「で、ここからなんすよ。もしA子に『おい、横入りしただろ』って注意したとして、A子のリアクションを考えてみます。『し、してないです』って言うかも。思いっきりしたのに。そんな言い訳だと『いや、した。私は見た』って言われます。ここで、A子は思考停止です。ドーン。黙っちゃいます。注意された時の対応を考えていないから、まあそうなりますよね」

「あ、結構このシーン想像しやすいでしょ? ちはるさん笑っちゃってますねえ。緑一色のタイトなジャージを着たおばさんが、下を向いて誰がみてもそうと分かる思考停止を始めたら、もうその場にいた人みんなが、『うわあ』ってなりますよ。さらなる影響を及ぼす。凄くないっすか? 目に浮かびますよね? ここでこのピタゴラスイッチはとんでもない結果を生むかもしれない。例えば、注意した人がA子に『お前、頭がおかしいのか?』と尋ねてみたり。だって、そんな台詞、日常の中であります? 冗談ならまだしも本気で『お前、頭がおかしいのか?』って人に言う機会はそうそうないっすよ」

「もうここには退屈な予定調和はないんすよ。これは凄く面白い。A子が即物的な行動をとったなんてのは、あくまできっかけでしかなくて、その後に無視できないほど膨大なエネルギーが世界に生じるところに着目したいんですよね。A子はきっと、変な形の羽を持って、変なエネルギーを世界に与えてるんすよ。だから、みんな影響されちゃうんです。それって、凄く良い。凄く楽しい。あたしが、人間っていいなあって思う瞬間なんですよ」

「まだまだA子は何かすると思うんですよね。で、何かが起きると思うんですよ。ほんと、それが楽しみで。できることなら、その輪に入りたいんすよ。A子にもっと動いてほしい。動けば動くほど、何か起きるかもしれない。ちはるさん、良いっすよ。A子に飯奢るとかって、めっちゃ良いです。いかにも経済的な事情から行動範囲に限りがあるA子を引っ張り出してる。だから、ここの店員さんも影響を受けたんすよ。やばい。これ、めっちゃ面白い」

玲香はさも楽しそうにここまで語ると、何を妄想しているのか、腕組みをしてニヤニヤするばかりになりました。
私はといえば、納得する部分が多くあれど玲香の思考回路には到底追いつけず、何がそんなに面白いのかと訝しんでしまう部分もあり、A子を理解するヒントをもらえた反面、もしかして自分はとんでもない案件に手を出してしまったのではないかと、不安な気持ちを抱きさえしました。とはいえ、玲香の饒舌な語りにはもっと聞きたいと思わせる力があり、事実玲香から「影響を受けている」自分の心にも気付かされます。

「あたしの言いたいこと、伝わりました? 今、一つ思い出したことあるんです。話していいですか?」

玲香は少し前のめりになってそう言いました。

「あたし十代の頃に、昔ドラッグストアでバイトしてたことあるんすよ。そこが割と広い店舗で。よく一緒のシフトに入っていたのが、大学生の男と六十代のおじさんだったんすよね──」

その日も玲香は、お決まりのトリオで働いていた。
おじさんは無口でいつもニコニコしながら懸命に働いていたが、大学生はどうも無愛想で、仕事のミスが多かった。
大学生のミスは玲香とおじさんがフォローするのが常。玲香は大学生の勤務態度に幾分苛立っていたものの、どうせ一日三時間だけの付き合いと割り切っていたそうだ。
玲香と大学生が品出しをしていた時のことだった。
カサっと背後で音がして、振り向くとどこかへ移動しようとしていた大学生が、玲香の傍の床に仮置きされていた風邪薬の箱を踏んでいた。
玲香はあっと思ったが、まあ良いか、と無視をした。とにかく三時間で終わる仕事だ、事を荒立てるまでもない。
「ちっ……んなとこに置くなやぁ」
大学生が呟くようにそう言った。
瞬間、玲香は衝動的に立ち上がり、
「んだこらてめえ! やんのか!」
と叫んだ。
清潔感や生活感を売りにするドラッグストアで働いているとはいえ、その頃の玲香はバリバリのヤンキーで、夜な夜な悪友と遊びまわっている口だった。玲香がバイトを続けるためにその辺りを隠していたことが返って仇となった。玲香の悪友たちの存在を知っていたら、きっと大学生は悪態を吐くこともなかったはずなのだ。
夕方の店内にはそこそこの人がいて、バックルーム奥の事務所には社員もいる。
が、堪忍袋の緒が切れた玲香は、そんなことを意に介さない。
大学生の鼻先まで顔を近づけ、「殺すぞボンクラこの野郎」と凄んだ。
大学生は身体をぷるぷると震わせ何事か言い返しそうな雰囲気を出していたが、気圧されているせいかただ玲香の目を睨むばかりだった。
その様子をしばらく見ていた玲香は急に冷静になり、内心で「ああ、このバイト、クビかなあ」と考えていた。
大声を出した割に社員が飛び出てくることもなく、これ以上何も起きないことを悟った玲香はもう一度しゃがんで、品出しを再開した。
そして、大学生がいかにもダルそうに踵を返した瞬間、

「ぐふぅ!」

と声を漏らして、その身体が大きく飛んだ。

そして、今まさに綺麗な横一線になった身体を床に打ち付けんとするおじさんの姿が目に入った。

あの温厚なおじさんが大学生の胸に、渾身のドロップキックを浴びせたのだ。

大学生はすぐ半身を起こして、ダメージを受けた胸をさすった。
床に寝転んだおじさんはすっと立ち上がり大学生に近づいたかと思うと、後頭部に思い切り蹴りを打ち込んだ。
大学生は「ううっ」と情けない声を漏らしたが、どういうわけかまだ胸をさすって、やれやれ、という表情を浮かべていた。
おじさんはペッと大学生に唾を吐いてから、レジの方に向かい、死角へ消えた。
玲香はしゃがんだまま、これはこの後どうなるんだろう、と心臓をバクバクさせながら見守った。

「で? どうなったの?」
「それが……これまた凄いんすよ……」

大学生は何事かブツブツ言いながら立ち上がると、まだ品出ししていないアルカリイオン水のペットボトルを開け、ゴクゴクと飲みだしたかと思うと、飲み残しを自分の頭へ一気に降り注いだ。

玲香は狐につままれた気分でその様子を見た。

なんで。
なんで、そうなるの。

大学生の足元は水浸しだった。

レジの方から、おじさんが客に向ける「ありがとうございました」という温かい響きの声が聞こえ、玲香はなお一層混乱するばかりだったそうだ。

「マジで? ねえ、それ本当の話なの?」
「……本当なんすよ。伝わりました?」

私はゴクリと唾を飲んでから「なんか、わかったかも……」と答えました。

(つづく)

(11)エンディングテーマ Ohio Players"Love Rollercoaster"


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