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「『怪と鬱』日記」 2021年5月4日(火) あるファンからのメール──愚狂人レポート(22)

ビールを取ろうと冷蔵庫に向かう途中、夫は私に心療内科へ行くことを勧めてきました。
「お酒も最近多いし、最近なんか変だよ。絶対にまたメンタルおかしくなってるから」
夫が「また」と付け加えるのは、私が結婚前に心療内科から抗うつ剤を処方されていたことを知っているからでした。
「でも、薬入れたらお酒飲めなくなっちゃって退屈だよ。自分ではそんなにおかしいとは思ってないんだよ」
「ううん。でも、俺から見てちょっと……様子がおかしいっていうか……今までと違うように見えるんだよ。心配でさ」
夫が知っている私のこれまでは、確かに現在ほど情緒不安定ではなかったと思います。
私自身、夫が感じている異変をよくわかっています。
でも、今このタイミングで医者に行って抗うつ剤や安定剤をもらうことは、随分と陰鬱なシナリオだと私は思いました。
訳もわからずA子に勝手に近づき、精神を侵され医者へ行く私。
余りにも残酷過ぎる展開です。

「俺は医者じゃないから、あれこれ言えないんだけど……心配だから。もちろん、医者へ行く行かないは、ちはるが決めればいいことだけど。俺はもう言わないから」

夫がこんな物言いをするのは、結婚前の私の惨状に触れずにいたいという優しさからくるものでした。
人は生まれる時間も場所を選べないまま誕生する。
私のトラウマはそれが原因で作られていました。
母と私の関係は最悪で、その時間が私を傷つけ、私を作りました。
逃避としての上京。逃避としての生活。逃避のためのやりがい。
逃避のための充実。
アルバイトをしながらがむしゃらに音楽を作り、発表の場を探す日々を送る中、私は何度も心を壊しました。
上手くいかないのは自分のせい。
私がもう欠けた人間になってしまっているせい。
心の重さに押し潰され何もできない日が、私の夢と希望を奪っていきます。
このままでは死ぬ。そう思った私は心療内科へ行き、初めて見ず知らずの人に母のことを話し、初めて見ず知らずの人の前で泣きました。

処方された薬を飲みながらまた夢を追い、少しずつ少しずつ私は今の自分になっていったのです。
出会いが私の世界を広げ、結果が私を肯定してくれました。
楽しい時間に身を置くことで私はあの日の少女と切り離され、微笑む天使になれたのです。
曇った空は祈るだけで晴れ渡るわけもなく、必要なのは雲の上方にまで飛んでいくこと。
上へ。上へ。
もっと上へ。
私を傷つけた人が見えなくなるほど上へ。
そうやって一歩一歩を進んでいつしか私は、「好きなことをして生きる」という夢を実現したのです。

そうやって手に入れた環境で、私が今また医者にかからなければならないとは。しかも、あんな気持ち悪いおばさんのせいで。いや、あんな気持ち悪いおばさんに近寄った自分のせいで。

なぜ、私はA子に惹かれるのか。
今まで何度も自問自答し、都度自爆を繰り返してきた命題が、また私にのしかかってきます。
問題があるのはA子ではなく私なのです。
A子に会う前から、きっとまだ私のどこかが壊れていたのです。

またあの空が暗くなっていく。
雨が私を濡らし、震えながら空腹感に堪える。
逃げられない。
壊れた私から逃げられない。
阻まれる。
阻まれる……。

──面白いか、面白くないか。
──社会は壮大なピタゴラスイッチ。
──出会いが私の世界を広げる。

──勝たなければならない。

私はA子という曇り空を見つけその下に立った。
それは、きっとその空の上を見たいからだ。
世界をもっと。
見知らぬ世界をもっと。
あの狂った世界の果てに対する執着心が私を動かしている。

私はA子に関わることであえて曇天を呼び起こし、そして雲の向こう側に行くことを望むという、とんでもない変態行為をしていたのです。
ボンベさんはこの行いが通常の感覚と全く違うことを自覚し、「覚悟」と言っていた。私は何の覚悟もなく、漫然とA子に近寄っていた。

では、たった今、私は覚悟を手に入れたか。
そんなわけはない。
これ以上、壊れたくはない。
それでも、執着心は消えない。
いよいよ、また医者の元に行くべきではないかと自分でも思えてきました。
私が持つべき覚悟は何なのか。
生き方の覚悟。
私にとっての「面白い」とは、過去を忘れさせてくれる時間のことです。
ここまで考えを及ばせてしまった今、A子の存在は最も過去を思い出させてしまう。
覚悟。
今の自分を受け入れる覚悟が私には足りない。
壊れた私は壊れた行いをし、壊れたまま生きる。
今までもずっとそうだった。
ならば私は、壊れたままでも時に幸せや充足感を得ることができるということか。
壊れた私には夫がいて、友人がいて、私が創造したもので楽しんでくれている人がいる。
普通になりたい。まともになりたい。
傷のない人になりたい。
これがそもそも私の覚悟の邪魔をしていたのかもしれない。
私は選べないまま、あの寒い寒い地で生まれ、過ごした。
でも、今は選べる。
自分がやりたいことを選びさえすればいい。

A子を追うか、追わないか。
自分を受け入れるか、受け入れないか。

生きるか、死ぬか。

このピタゴラスイッチを見届けたいこの執着心を私は信じる。
壊れるならバラバラになれば良い。
誰に理解されずとも、私は構わない。

これが私だ。

空いたビールの缶を衝動的に壁へ投げつけると想像していたより大きな音が鳴り、リビングから「大丈夫?」と夫の声が聞こえてきました。

(つづく)

(22)エンディングテーマ Albert King"Born Under A Bad Sign"



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