見出し画像

「途中」の味わい

何かを成し遂げようとしている時の「途中」という段階。
挑戦している人は、必ず通るステージ。

僕は今、まさにそんな道のりの5合目あたりにいる。新しいアルバム制作のことだ。断っておくと、今日はそれについて書くわけではない。誰に向けて書くものでもなく、自分に言い聞かせる言葉を今日は書きたい。


「途中」にも、色々ある

「5合目」という書き方をしたけれど、あえて10段階に分けてみる。

  1. 企画・構想(1~3)

  2. 制作〔作編曲や録音など〕(4~6)

  3. 仕上げ〔ミキシング・マスタリング〕(7~9)

  4. 完成(10)

僕のアルバムは現在、制作の真ん中くらいにいる。

「計画」の段階にとても時間を使って作っているため、作り始めて半年経った今もなお、制作の中盤といったところ。スタジオで曲を淡々と書いてきた僕が、半年もアルバムを作っていて「半分以下」の完成度という事実は、実は結構しんどい。片手間で作っているわけでは決してない。それでも、完成予定日も、今のままだと希望していたリリース日も、全て後ろ倒しだ。


人に言える「途中」、言えない「途中」

完成度が見えてこない段階で、
人に自分の作品について語るのが本当に本当に苦手だ。

本来なら、

今、レコーディングは終わっていて、あとはミックスしながら
アレンジを詰めて曲の完成度を高めるタイミングです。

などと具体的なことが言えれば、言葉にも自信が宿るはず。同じ「途中」でも胸を張って「ご期待ください」って言える。

でもここ半年間の僕には、「発信するほど、人に伝えられるほど"進んだ途中"」さえもない。これ、自分が思っていた以上に、メンタルがきつい。


「途中」との付き合い方を見失うと・・・

SNSで告知するのが当たり前になってしまった現代。

毎週水曜日・金曜日になるとたくさんの新曲たちがストリーミング市場に溢れかえる。そして楽曲量以上の告知が、SNS上で飛び交っているのを、毎日・毎分・毎秒目にしなければいけない。

人と比べるような作品は作らない。そう強く信じて進めていたって、
いろんな情報が目の前を飛びかえば、気が散ってしまうことも多々。

何も発信することがない僕は、この半年間、
ただ淡々と曲に向き合えてきたわけではなかった。


どうしたって、焦る。


新譜情報はもちろんのこと、もともとマーケティングの知識や業務経験がある僕にとっては、作品を作る最中に目にする「音楽マーケティング関連記事」さえも見たくなくなった。もちろん筆者の方に向けた感情ではない。マーケットの推移やトレンドを確認しながら、ゼロスタートで全く新しい自分を再構築できるほど、僕の神経が図太くないだけ。

僕は、音楽制作者として
音楽制作とマーケティング両方の経験を磨いてきた。
かつて、その恩恵を受けてチャンスを得たレガシーがあった。

この当時、僕はめちゃくちゃ音楽ストリーミングという市場を研究した。研究して得た成果を、JASRACシンポジウムをはじめ、求められれば各方面で登壇・プレゼンして回ったりもした。音楽業界の新参者だからこそ目立とうと躍起だったし、良縁にも恵まれ(思えばその縁で妻にも出会い)、沢山のチャンスをいただいてここまでやってきた。


そんな自分が今、思うことを素直に書く。


「俺、忘れられちゃったのかもしれない。」

「途中」という時間をあまりにも多く過ごしてしまっているがために、実際がどうであれ、僕は最近そんなことを考える。


「終わった」とか「最近、話聞かないね」とか、そういう風に思われるほど僕は何かを成し遂げていない。単に、情報の波と濁流に呑み込まれ、記憶から消え去る程度の印象だ。って。

--

それもあってか、音楽活動を通じて知り合い、
会うたびに色んな夢や希望を話してきた方々にも、
連絡するのが億劫になってしまっている。

連絡して話そうにも、以前躍起になって話していたような音楽に対する戦略絵図が今、僕の頭に皆無。制作で超えないといけないハードルが高すぎて、他へ割く余裕がない。


近況報告するネタがなくて連絡できない、なんて寂しい話だな、と思うこともあった。でも、僕が僕を再構築して歩き出すために、外的要因を一度締め出す行為は、絶対に必要だったと今は思う。


「途中」に向き合う

とは言いつつ、僕もこの半年間、
制作以外何もせず過ごしてきたわけじゃない。

むしろ月日のおかげで、僕は自分の中にある「現在の正解」をちゃんと理解することができた。過去や実績から導き出される正解、ではなく。

--

自分の興味を最優先

自分が誰のために生きているか、僕の場合、答えは自分とごく身近な人たち、そしてそんな僕を好きでいてくれる人や前向きに気にかけてくれる人ためだと思ってる。音楽だってそう。僕の音楽に興味を持ちうる人はともかく、絶対に興味を持たない相手のことなんて考えて作っていない。


一方、何とかして数字を積み上げて「次のステージへ」と思っていた1~2年前はどうだろう。僕は「僕に興味を持たないであろう人」をどう、自分に関心を持ってもらうかをすごく考えていた。

結論、徒労どころか、本来伝えるべきメッセージもブレてたように思う。

せっせと音楽を作ってはリリースを繰り返していた頃、
僕は自分を一番大事に生きようとしていたのに、
生き方を当時もっともストリーミングで数を稼げる方法に
染めていたように今は思う。結局、成果も心も満たせぬままだった。


その結果得られた「数的成果」を
散々プロモーションやプロフィールに詰め込んで、
僕はいつしか、自ら崩れ落ちた。

プラットフォームという自分の力じゃどうにもできない力を頼って、
しかもそれらありきで曲を書き始めて、
どこかで「プツン」と糸が切れてしまった。


そういう意味でも、僕は今「再構築」の最中にいる。
ほぼ一人で音楽を作り込んだアルバム『STELLAR』を経て。

その方法論はとてもシンプルで、
なんどもnoteで書いてきていることだけど


自分がその時思う"自分"を妥協せずに表現しきる

ということだ。


興味の奥底を表現できて生まれるもの

僕の場合、最終的に行き着く先は自らの「心の中」であることが多い。

心模様を高純度で表現している人を、他人は論理的に否定できない。感情と論理が複雑に入り組んだ心を紐解き、表現できた人は、とても強い。

僕は音楽や人に関わる仕事をしていて、
どんな人の音楽や言葉に聞き耳を立てているか、
そしてそれは何故なのかを、これまでもよく考えてきて、
とてもシンプルな答えに行き着いた。


伝えている自分も、伝わっている相手にも、「嘘がない」と思える表現だ。

話を聞く時、相手が自身の興味を、

感情(好き嫌い)
= 理屈がないもの
--
動機(何故そう感じるか、きっかけ)
変化(「好き」や「嫌い」が育った歴史)
= 論理立てて説明できるもの

を区別、整理した上で伝えようとしている時、すごく説得力がある。

愛(感情)の表現が端的で鋭く、論理に不自然さを帯びない状態だ。ある意味、相手に表現の裏側を疑問視する隙を与えないとも言えるだろう。


「好き」を論理的に説明しようとしたり、感情変化を論理性なしに伝える表現が、僕の心に響かないときがある。「ん?」「つまり?」などと、伝える相手が一呼吸置いているうちに、熱が冷めてしまうからだろう。


整理すべき部分と、極限まで整理し切って残った部分。
これらを自ら理解できるまで、自分と語らったことがある人からは、
自然と「嘘のない説得力ある表現」が生まれているように僕は感じる。


話を元の「途中」に戻す。

整理整頓さえ終えていれば、たとえ道半ばの段階でも
深く話せることってある。
僕は最近、そんな風に思えた。

だからか最近やっと、こうして最近の自分自身をnoteに残せるようになった。たとえ制作の「途中」だとしても。


「完成」という証拠なしで語る

唐突に、めちゃくちゃ陳腐な物言いをするけれど、
ときに「アーティスト」と名のつく種類の人たちは僕を含め

生き方そのものが作品

と形容されるべき存在だと思う。

商流で生産、物流、卸売されて動く「商品」と
「アート」「アーティスト」の差。

納品を経て市場に出回り、初めて価値を測られる商品。
育成プロセス、悩みや苦しむ姿さえも価値となり得るアート。

対照的だと僕は思う。


僕は長らく、音楽の世界でも納品ありきで生きている。
お金をいただいて音楽を作るという意味では、納品は必須。
でも、少しずつ、最近はそれだけじゃない生き方を模索している。


完成や納品は、一番わかりやすい「成果」だろう。

でも、その成果に縛られてしまうと、作品へと昇華しなければ、
僕ら表現者は何も言えない無のような存在なのかと錯覚してしまう。
怖いことに、僕自身が表現に没頭すればするほど、
そんな気持ちになりがち。

幸運にも、僕はここnoteという表現の場所を手に入れたことで、音楽を作ることとはある種全く別のアプローチの自己表現を手に入れた。

ふと思う。もし自分が
「完成させた自分だけを発信したい」
と考えて書いていたら、どうなっていただろう。


きっと、朽ち果てる直前まで1つも記事は書かないままだったろう。

作品に置き換えても同様に思う。
どれだけ作品を完成させたと思えても、
自分という単位で俯瞰すれば「途中」でしかないのだ。

--

「音楽が完成しないと何も言えない。」

そう考えていた以前の僕を、今は愚かな存在だと自ら振り返る。

音楽を作りながら変わりゆく自分こそ、伝えたいことであって、その表現方法を、音楽に限定する必要は必ずしもない。本気で音楽を作っている「途中」だからこそ、僕は自分の表現に対して枷をつけて生きたくない。逆を言えば、この言葉の熱量を上回れない音楽なんて、世に出したくない。


作品完成の先にある「方法」

NFT、メタバース、360 Reality Audio。
パッと思いつく事柄だけでも、
この1年を通して音楽の世界では表現・発信の幅がかなり拡がった。

マーケティングを行って「商品」の開発をするならば、僕は迷いなく市場の成長度合いを読みながら時流に合わせた「商品」を適宜打ち出す方針で音楽を作っていた。「とりあえず新しいことに目が向いてるブランディング」も、市場競争を優位に進めるための1つの手段だと思う。

でも今、僕はそれら「手法」に対して冷静だ。
まずは、僕が作品に込める「メッセージ」の質が全てだから。
「メッセージ」あっての表現で、表現あっての作品で、
作品あっての、応用手段だと僕は思うから。


もし旬な手法を掛け算するなら、よりメッセージのコアをえぐり出すような強い掛け算をしたい。純度を高めるためだけの掛け算を。

音楽に限ったことではなく、曲やプレゼン、誰かに送る手紙でさえも、何を伝えたいのかが一番尊い。僕は何をするにも「内容」に想いを馳せられた時にもっともやりがいを感じられ、同じく「内容」に命を削った相手に出会った時、尊敬の念を抱いてしまう。

「内容」を「具体化」する制作や仕上げは、今の僕に言わせれば、やりたいことの一流を頼ればいいと思う。(僕は一人でやることに価値を見出したから、こんなに時間がかかるのだけど)



「途中」をどう捉えるか

もどかしいと捉えるか。
その時しかできない表現の場と捉えるか。
考え方ひとつで、もっと自分を肯定して生きられる気がしてきた。

さて、作業に戻るとしよう。


よろしければサポートをお願いいたします。サポートいただけましたら機材投資、音源制作に回させていただき、更に良い音楽を届けられるよう遣わせていただきます。