「赤とんぼ」から見る変と不変②

(この投稿は中編になります。「赤とんぼ」から見る変と不変①から読んでください。また後の投稿に続きます。)

夕焼小焼の 赤蜻蛉
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小籠に摘つんだは 幻か

十五で姐やは 嫁に行き
お里の便りも 絶え果てた

夕焼小焼の 赤蜻蛉
止まっているよ 竿の先

詞 三木露風
(Wikisource「赤とんぼ」
https://ja.m.wikisource.org/wiki/赤とんぼ
ルビは除外。)

その体に馴染むメロディに取り憑かれて、なんとか自分の理解の中に取り込もうとした赤とんぼだが、その過程で触れた三木露風の詞に私は大きな感銘を受けた。

ここで本記事のタイトルに触れたい。シンプルに言うなれば「赤とんぼ」の詞には変わってしまったものと、そうでないものが全編に渡って明記されているのだ。具体的に掘り下げると1から3番までは「いつの日か」「幻か」「絶え果てた」と、記されている描写が過去の出来事になってしまっていることが各節の最後に書かれている。またそれぞれが一緒くたに過去のものとなっているのではなく、3番までそれぞれ異なるタイミングを切り取っている。誰かに背負われながら見た景色が、小かごを背負い畑を手伝う視点に切り替わる。そして、姐や(女中という説が有力)が嫁にでていく、という事実を認識できるまで成長した段階へと詞が進むように、記憶も古いものから新しいものへと流れていくのだ。先程も触れたとおり、大事なことはそれらが今はそのまま残っていないということ。特に「幻」という言葉の当て方は懐かしめども眼前に戻ってこないという諦めを含んだ哀愁を感じざるを得ない。全ては回想であり、この3番までが時系列になっているであろうというところがこの詞の文章として美しく、儚い「変」であるのだ。

そして最後、歌でいう4番に対となる「不変」が見て取れる。全体を通して唯一現在の言い切りをしている「止まっているよ」の部分だがどこに掛かっているかというと、そう、「夕焼小焼の 赤蜻蛉」なのだ。大人に背負われ見たそんな状況は戻ってこないがその景色そのものは今も変わらずそこにあることが4番では触れられている。

一節毎に描写された鮮やかな情景に心を奪われたままになりそうだが、「赤とんぼ」の詞には確かな時間の流れ、変と不変が書き留められている。なんとも諸行無常、日本人的だと言えばそうであるが、日本人から1番欠落しつつあるらしさでもある気がする。

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