「赤とんぼ」から見る変と不変③

(この投稿は後編になります。「赤とんぼ」から見る変と不変①、②をそれぞれご参照ください。)

ここまで詞について長々と触れてきたが、一応私は音楽家なので曲の話題に戻らねばならない。歌詞ではなく、詞と表記してきたことからも察せるように「赤とんぼ」は詞が先である。前述の出来の詞を受け取った山田は何を思っただろうか。想像するだけで胃が痛くなる。言うまでもないが、ここまで感情揺さぶられる詞に曲をつけきった山田はやはり偉大であると感嘆してしまう。

こうして詞も、曲も否の打ちどころなしといった形で誕生した「赤とんぼ」だが、世の中が大きく様相を変えた今でも愛され続けている。2003年にNPO「日本童謡の会」が行ったアンケートで好きな童謡の最多票を集めた。20年たった今でも強く認知されていることに変わりないだろうし、今後もこの曲は残り続けると確信している。描写された情景だけでなく「赤とんぼ」自体も不変の存在となりつつあるのだ。

私の心に長くつきまとった「赤とんぼ」の呪いだが、前述のとおりわたしの中での編曲の完成形を1つ作り終えたことによって一段落する。出来は拍子も調も変化するものとなった。不変の存在たる曲に対する諦めか。偉大な作品への畏怖があるのか。今でも1つのゴールにたどり着いた起因はわからないが、楽しくてなんとも満ち足りた呪いだった。世の中は目覚ましく形を変えて流れていく。作品を遺した巨匠2人はもういない。予想だにしない疫病で世界は変わり、コメディの巨匠もこの世を去った。曲に触れ、心動かされた数々の人も、もちろん私も「変」の存在でしかない。そんな変化の流れの中をただ一匹の赤とんぼがゆっくりと向こうに飛んでいく。

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