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名言集として見る「悪の法則」

しばらく前のAmazon primeのセールにあったので、数年ぶりにリドリー・スコット監督の「悪の法則」を鑑賞した。

「エイリアン」や「ブレードランナー」の巨匠リドリー・スコット監督の、というより、コーエン兄弟が監督し作品賞・監督賞を含むアカデミー賞4部門を獲得した「ノーカントリー」の原作者、コーマック・マッカーシーによる書き下ろし脚本の映画と言った方がいいのかもしれない。

劇場で一度見ていて、もう一度見ようというくらいなので自分はこの作品が好きなのだが、Amazonでこの作品のレビューを見てみると、高い評価もある一方でこのような低い評価も目立つ。


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「意味不明」「分からない」

あたりの感想が低評価で共通しているように思う。YAHOO!映画レビューも、低評価の理由はおおむね同様で、それゆえ「時間の無駄」という感想も多い。
(なお、YAHOO!映画レビューは1~2点の低評価と、4~5点の高評価が真っ二つに割れて2.9点という平均点なのも興味深い)

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ここまでどんな映画なのかジャンルやストーリー説明しなかったのだが、Amazonにはこう書いてある

超豪華キャスト×リドリー・スコット監督が放つ、全編緊迫のクライム・サスペンス!
黒幕は誰だ・・・

出演は主人公の弁護士にマイケル・ファスベンダー。ほか、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデム、ブラッド・ピットだ。「超豪華キャスト」に異論はないだろう。

しかし、問題は
「全編緊迫のクライム・サスペンス! 黒幕は誰だ・・・」
な部分なのだ。

ストーリーをもう少し説明すると、主人公であるカウンセラー(弁護士、原題でもあり、彼の名前は本編で出てこない)が、麻薬密売に関わる裏ビジネスに手を染め始めるも、不測の事態が起こり関係者全員が窮地に追い込まれる、というもの。

なので、「クライム・サスペンス」というカテゴライズが全く間違っているわけではない。ただ、通常のクライム・サスペンスというジャンル映画は、主人公が悪事をしようとする(あるいはしている)理由が示され、これからやろうとするいつもとは違う悪事の全体像が示され、種々のトラブルが起こりつつも、果たしてそれは成功するのかどうか、主人公たちはどういう結末を迎えるのか、が大きな骨格だ。

しかし、この「悪の法則」には、その骨格は全くない。悪事における主要メンバーの役割分担も、具体的にどのような悪事を行なっていて金を儲けていたのか、なにも説明されないのである。また麻薬カルテルの怒りを買って窮地に追い込まれるわけだが、カルテル側のボスのような存在も劇中には出てこない。映画に登場する「敵側」は、常に現場、末端の人間だけだ。それも映画内の事件や悪事の構造を理解しにくくさせている。

もう一つ、キャッチコピーの煽りにもある「黒幕は誰だ…」も問題で、事件を起こす(みんなをハメる)張本人は比較的序盤で明かされる。ただ、あまりにあっけない開陳なので、初見時は「え? 今のどういうこと?」と疑問が湧くのも仕方ないレベルなのだ。

つまり、この映画はいわゆるジャンル映画としての「クライム・サスペンス」を期待して見始めると、確実に面を食らう。クライム・サスペンスの要素はあるが、ジャンル映画としてのそれを期待してはいけない。では、どういう映画だと思ってみればよいのだろうか。

これは、セリフの中の「自分に刺さる人生訓」を拾い集めるための映画だ。

「クライム・サスペンス」映画ではなく、むしろ書籍でラ・ロシュフコーの「箴言集」とか、寺山修司の「ポケットに名言を」をめくる感覚に近い。

「思わせぶりなセリフ」「意味ありげなだけ」「長たらしい会話」「哲学的な思想の提示」「暗喩や哲学的表現が多く、非常にわかり分かりにくい」これらは全部Amazonの低評価レビューの中に実際にあった表現だ。

分かる。「クライム・サスペンス」だと思ったまま見続けていたら、そういう気持ちになるのも。

大人数の飲み会で、頼んだはずのウーロン茶だと思って口にしたそれが濃いめのウーロンハイだったら、ひと口飲んで分かる。しかし、映画の場合は「?」が浮かびながらも時間が進み、うっかりすると最後まで見て「なんだったんだ、これは…」となってしまうのだ。

だから、この映画を自分にとって刺さる言葉を探す映画として見てみてはどうだろうか。
それこそ、寺山修司の「ポケットに名言を」の第二章は映画の中の名言集だった。寺山はそれを「言葉の宝探し」と言っていた。
もちろん、人生訓やら思わせぶりな、あるいは皮肉めいた言葉自体が苦手な人はこの映画は合わないだろう。しかし、映画のセリフや本の一節、誰かの会話や発言に「ハッとする」言葉を見つけたときに思わず心のメモ帳に保存したくなるようなタイプの人は、この映画の中から「宝」が見つかるかもしれない。

セリフは、同じメッセージ・テーマがいろいろな表現で語られる。

時間は進む。物事は勝手に進行する。自分が理解できない/自分を理解してくれない他者や世界は、常に存在してるし、ずっと前から存在している。理解できないからというのは、受け入れずに済むという理由にはならない。安全圏から「いっちょ噛み」でオイシイものを手に入れるなんてことはありえない。物事にグラデーションの中間地点などなく、白か黒か、アリかナシかの二択である。行為には代償が伴う。交換できないものに価値はない。本能や習性は理性で否定できない。本能や習性を認めない者は、本能や習性を持った他者の餌食になるだけである。「巻き込まないでくれ」とお願いしないといけない時は、すでに巻き込まれている時である。

と、簡潔にまとめてしまうとそれそのものは新鮮味のない、ある意味であたり前のことばかりだ。
しかし、それが映画の中での背景や文脈と合わせてセリフになっていると、とても味わい深い。

冒頭で説明したとおり、この映画はコーマック・マッカーシーの書き下ろし脚本で、小説の形の原作はない(5週間で書き上げ、別の長編の間に気分転換で書いたそうだ)。Kindleで書き下ろし脚本版も買って読んだが、かなり脚本に忠実に映画化している。

公開時は117分で、後ほどディレクターズカット版で138分版も発売されている(Primeレンタルも可)。ディレクターズカットの方も、脚本に沿って撮影していたものの上映版の際にカットしたような感じで違う要素がたされているわけではない。ちなみに映画内ではスペイン語の多くには字幕がないのだが、脚本版のスペイン語は日本語訳が入っている。

悪の法則 オリジナル版 (字幕版)

悪の法則 特別編集版 (字幕版)

Kindleで脚本も読んだので、いっぱいハイライトした「言葉の宝」はあるのだが、羅列はしないで一つだけ紹介する。

あんたは今自分が十字路に立って進むべき道を選ぼうとしていると思っている。でも選ぶことなんてできない。受け入れるしかない。選ぶのはもうとっくの昔にやってるんだから。」

窮地に追い込まれた主人公が、(メキシコ側と思われる)有力者に助けを求めるも、為すすべはないと電話で言われるシーンだ。

人は、「岐路に立たされた」と感じるときがある。そして、右に行くべきか、左に行くべきか、あるいは今は見えていない道がどこかにあるのではないか、そういうことを一生懸命考える。しかし、そのような状況の時はたいがい、選択肢があるように見えるだけで本当は選択肢は残されていない。そして、岐路に立たされたと感じる場所にたどり着く、そのずっと前にそっち側の道を選んでいるのだ。その時は、違う選択肢もあったのに。岐路に立たされているという切迫感もないまま、そっちの道を選んでしまっているのだ。


「意味不明」「分からない」

この映画の低評価レビューで共通する感想だと言った。その気持もわかると書いた。


しかし、この映画をじっくり見た人ならば、あることに気づいたはずだ。

「知らない」「わからない」「知りたくない」「考えたくない」

劇中で悲惨な目に合う登場人物は全員、見事に全員、これらの言葉を何度も口にしている。


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