死にゆく人の心に寄り添う

著者の玉置妙憂さんを取り上げたNHKのクローズアップ現代のサマリーのサイトを友人に教えていただいたのがこの本を手にしたきっかけだった。

玉置妙憂さんは大学卒業後、就職、結婚をされたのち、お子さんが重度のアレルギーを持っていたことから看護師になり、更に旦那様の”自然死”という美しい死にざまに立ち会ったことを機に高野山真言宗で修業を積み僧侶となったという異色の経歴の持ち主だ。

大腸がんの手術、化学療法を行った著者の旦那様は3年後に再発してからは、治療をせず、在宅で過ごすことを選び、著者も、最終的に旦那様の考えを尊重し、在宅での看取りをされたそう。

その経験の中で、「医療行為により自然で理にかなった死のプロセスが妨げられることがある」ということに気付いたという。

これはあくまでも「ことがある」ということであり、白血病を発症しながら、医療の進歩と脅威的なご自身の努力で、オリンピック代表に返り咲いた池江璃花子選手を見れば、医療行為自体が否定されるべきものではないことは著者も承知の上の見解であろう。

その後、著者は僧侶になるための修行をされる。200日の俗世との連絡を一切とれない過酷な修行で、四度加行という毎日12時間以上の正座を強いられる修行もあるのだとか。合理が通用しない世界を体験することで、心配事を自分で作り出している事に思い当たり、その弱くコントロールできない自分の心を受容することを学ぶ。苦しいことも不安も喜びも合理的であるかどうかも、自分がどう見るかどう考えるかで変わるということに気付いたそう。

修行の不合理さはフルマラソンのそれのようなものではないだろうかと思った。疲れたときにはただ無心に右足と左足を交互に出す。一緒にするにはレベルが違い過ぎるけれど...

「不甲斐ない自分も含め、丸ごと自分を請け負う」ということは私も20代後半に鬱を克服してから、心掛けている境地だ。

臨床宗教師という職種は今回初めて知ったが、カウンセラー(臨床心理士)が精神・心理的な問題を抱える人の援助を担当し、死後のことは含まれないのに対し、臨床宗教師は死にゆく人の心のケア(著者はスピリチュアルケアと名付けている)をする役目で、死そのものや死後の世界までが守備範囲というところが大きな違いなのだそう。実際、カウンセリングのテキストに載っているようなおうむ返しなどの傾聴テクニックは、バカにされたように思ったり、わかったようなことを言われたくないという思いから通用しない場面が多いというのもうなずける。

剃髪したら、患者さんが体のことではなく心のことを話始めたというのも興味深い。「解決策はいらない。ただ話したいだけ、愚痴をこぼしたいだけ。 話すことで楽になる。」というのはスピリチュアルケアに限ったことではないだろう。

死に直面することの少ない日本のシステムの中にあって、私は医師という職業柄、また、両親の闘病と死をみてきた経験から、人よりも死が身近にある方だと思うが、まだ、死ぬかもしれないという状況に陥ったことがないので、死を突き付けられた時、自分がどんな気持ちになるのか想像することしかできない。だが、「死は特別に怖いだけのものではなく、順繰りに回ってくる普通のものだ」1年前に他界した先輩ドクターも言っていたというこのことが腑に落ちたとき、死の恐怖も和らぐのかもしれないとも思う。

著者は医療の知識を持ち合わせた臨床宗教師のような死にゆく人の言葉に耳を傾ける第三者の存在の必要性を説くと共に、死にゆく人の看護者、介護者にも心を砕く。

介護でクタクタになりながら、相手の気持ちに沿うことの難しさは介護を経験したものならば、誰しも理解できるのではないだろうか?

加えて、家族は死の話題を避けがち。看護者、介護者が死に向き合えていないで、聴くことから逃げると、患者さんは話すことを諦める。

「みんな遠慮して聞いてくれないから。聞かない人に話すのは、すごく勇気がいるから話せなかった。」「何が怖いとか、死んだらどうなると思っているとか、聞いてくれると話せるし、頭の中で考えているよりも、話したほうが怖くない」とおっしゃる方もいたそうだ。

人生の着地態勢に入った人が安心して最期の日々を過ごし、安らかに逝くためには看取る側の心の準備も大切と著者は言う。死に直面することの少ない日本のシステムなので、死んだときのイメージが湧かない、もっといえば、人間は死なないと思っている。親の死を一度も考えたことがなく、親の死を受け入れられない人があまりにも多いと。

著者は「親はいつか死ぬ。いつまでも元気でいるわけではない」ということを前に伝えておかなければならないと思うようになったとし、心のケアや死について学ぶ「養老指南塾」という勉強会を開催しているそうだ。勉強会では、死のプロセス、終末期医療のこと、心の持ち様までを学び、親の死を通して、自分の死を考え、これからの人生をどう生きるかを考えるきっかけづくりの場にしているとのこと。「ただいるだけでいい。物理的に何かをせずとも、同じ空間にいるだけで何かをしていることになる。」というメッセージは最期の日々を過ごしている人にとって、大きな励みになることだろう。私も養老指南塾を受講していたら、父の介護ももっと上手くできたかもしれない。

著者はまた、生きていく人の心に寄り添う、精神科クリニックでのリハビリテーション・プログラムにも関わっているそうだ。終末期の患者さん同様、医療だけで対処するのが難しく、精神的な面からのアプローチが有用な精神疾患患者さん向けの仏教プログラムはその名も「GEDATSU」。自分の考え方や行動の癖に自分で気づき、それを徐々に変えていくことに仏教的なものの見方が役立つというのは想像に難くない。

なかでも「デス・トライアル」、死の体験旅行のプログラムは死を身近に感じて自分を見つめ直すためにとても有用なプラグラムだと思った。

「デス・トライアル」では、まず、物として大切なもの、物以外の大切なもの、夢や希望、やってみたいことをそれぞれ10個ずつ、全部で30個ピックアップして、付箋に書く。それから、余命半年を病院で告げられ、その人の気持ちを感じる体験をする。キュプラ―=ロスの「死の受容プロセス」の否認・怒り・取引・抑うつ・受容の5段階の中で、否認の気持ちになったところで30個の中から6つを捨てる。ナレーションを使って、怒りを感じてもらったところで、また、6個捨てる。そして、6個ずつ捨てていくことをくりかえし、最後に「死が訪れるときがきました。2つ捨ててください」と言い、最後に1つだけ残してもらう。「抑うつ」段階からは五感で感じてもらうため、お香を焚き、2つを捨て終わったことろでチーンと鐘を鳴らして、瞑想、いわば、涅槃に入った状態にするそう。その後、全員で、最後に残したものとその理由、やってみての感想を発表し合い、体験を共有する。

デス・トライアルが自分が着地点への過程にいるという自覚に繋がるかはわからないが、自分にとって何が大切なのかを考えることで、これから先それを意識して生きることができれば、少しは意味があるのではないかと著者は言う。

・人はみんな徹底的に一人だということが腑に落ちたとき、初めて自分で自分を律することができるのではないか。

・物事を他者のせいにしないこと。
誰に愛されなくても、誰が横にいなくても、一人で立っていられるようになること。

・単なる人間関係ではなく、もっと宇宙的なものとの繋がりを感じる
仏様もご先祖様も含めたあらゆるものが自分とともにあるも思うことができればとても楽になる

・したことはすべて、その時点でよかれと思ってしたことであり、たとえできることをすべてし尽くしたとしても、後悔は残る。「起こったことはすべて、起こるべくして起こったこと」であり、「終わったことはすべて、よかったこと」と思い、自分を許していい。

私にとっては、迷いながら、辿り着いた境地に、同じような答えに辿り着いた同士がいてくれたような、そんな気持ちにさせてくれる本だった。

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