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「西行花伝」を読んで


「西行花伝」を読み終えた。辻邦夫氏のフィルターを通してではあるが、西行の生き方や考え方に触れ、共感もし、気付きもあった。

白洲正子、松尾芭蕉、好きな二人が共に敬愛している西行のことをよく知りたいという気持ちから、お借りした本だ。

西行は平安の雅やかで華やかな世から保元の乱、源平の戦、そして、鎌倉時代へと時代が大きく変遷する真っただ中に生き、若くに出家したお陰もあるのか、望月の頃、桜の下で73才の生涯を閉じるまで、無事に天寿を全うしている。

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

詞書きに「鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める」とあるこの歌は、いくら惜しんでも惜しみとおすことのできないこの世であるから、いっそのこと世を捨て、出家してこの身を助けようと思うとの意だが、出家したことで、戦乱に巻き込まれることなく、身体も助かったのかもしれない。

それにしても、錚々たる時代の主人公たちとの親交の広さに驚かされる。後鳥羽院御口伝に「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」との記述もあるという。「誰かを引き留め得るとしたら、その人の魅力を持ってしてのみ」だということを常々思っているのだが、西行は生前から周囲を魅了し、時代を超えて、尚、ファンを増やしているのだから驚きだ。

弓張の 月に外れて 見し影の やさしかりしは いつか忘れん

出家前の佐藤義清は鳥羽院の北面の武士に選ばれるほどのイケメンで、感受性豊かな若者だったに違いない。憧れの存在・女院(待賢門院)への想いを歌に込めるものだから、900年後の私たちですら知るところとなっている恋心。恋愛におおらかな時代が日本にもあった。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

捨てがたき 思ひなれども 捨てて出でむ まことの道ぞ まことなるべき

友の死をきっかけに、出家し、歌に生きることを決めた23才の西行。「あ~、楽しかった!」って思って死ねたら本望だと思っていた23才の私とはエライ違いだ。そんな私もやっとこ、まことの道を進んでいきたいと思うようになった。いくら楽しく生きたって、自分の身はいつかは滅んでしまう。自分の亡き後、生きてきた意義が何か残せるとしたら、それはインプットしたものではなくて、アウトプットしたものだけだ。それを考えると、損得で生きることの虚しさを覚える。

世の中を 捨てて捨て得ぬ 心地して 都離れぬ わが身なりけり

さればよと 見るみる人の 落ちぞ入る 多くの穴の 世にはありける

出家したとはいえ、迷いの中にあった西行は苦行の末に遂に次の歌のような境地にいたる。

雲晴れて 身にうれへなき 人の身ぞ さやかに月の かげは見るべき

出家前の義清ははかなく、心もとない浮世にあって、女院への恋慕を生きるよすがとしていたが、遂にはよきものが森羅万象(いきとしいけるもの)に満ちていると思える心境にいたる。著者の解釈によれば、女院の姿が森羅万象に変成し、この世とひとつになった由。

ひまもなき 炎(ほむら)のなかの 苦しみも 心おこせば 悟りにぞなる

真に優しくあるためには強くなくては難しいと思っている。その強さはどこからくるかといえば、苦労をくぐり抜けてこそ得られるもの。最近でいえば、白血病を乗り越え、現役復帰を目指す競泳の池江璃花子選手にその様をみている。何をもって幸せとするかは人それぞれだけど、面白みや深みがあり、配慮ができる人はそれなりの苦労をしている方に多い。ただ、苦労しても、心おこさず、人のせいにしたり、恨んだり、妬んだりしていると、甲斐のない結果となる。

朝日にや むすぶ氷の 苦は解けむ 六つの輪をきく 暁の空

六道輪廻の存在を避けることを止めて、それを慈悲で包み、自分と同化し、積極的に受け止めることにより、解脱をしたという西行。苦労は悟りの境地に至るための仏の慈悲だと。かつては桜に心狂わせていた西行が、後年は、ありのままの森羅万象、晩秋の侘しさや雪の降りしきる山里、働く農民にもしみじみとした感慨を覚えるようになっていく。

一方で、浮世は戦乱の時代へと突入し、武士が台頭してくる。

言の葉の 情絶えにし 折節に あり逢ふ身こそ 悲しかりけれ

世を嘆く歌が遺されている。保元の乱に際して、西行花伝の中で、西行は待賢門院の子である崇徳院が摂関家の内紛に巻き込まれないように、奔走したことになっているがここは著者の創作部分かと思う。ただ、讃岐に配流された崇徳院と歌を交わしていた事実はあるようだ。

いとどしく 憂きにつけても たのむかな 契りし道の しるべたがふな

かかりける 涙にしづむ 身の憂さを 君ならでまた 誰か浮かべん

苦悩と西行への救済を求める崇徳院の歌だ。それに対して、西行は

ながれ出づる 涙に今日は 沈むとも 浮かばん末を なほ思はなん

と応じている。「人の世の宿命(さだめ)は動かすことができない。たとえ動かそうと努めても、宿命の許すかぎりにおいて動くのであって、結局は、それも宿命のきまりに従っているのである。」著者は西行に思わしめている。私も最近は運命とはそんなものかもしれないなと思うようになった。

世の中を 背く便りや なからまし 憂き折節に 君逢わずして

西行は崇徳院に、この不運が、浮世を離脱し、まことの道に進むよい機会だと諭している。宿命に対して、人は不可抗力だが、宿命に意味を与えることで、内面ではそれを問題とせず、新しい光で物をみることができるのですよと。ただし、こればかりはどんなにアドバイスを受けても、本人が芯から理解するより手立てがない。

なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

伊勢神宮参拝の際に詠んだとされている、森羅万象に慈愛を持って接する西行ならではの温かく、美しい歌だ。

今よりは いとはじ命 あればこそ かかるすまひの あはれをも知れ

コロナ禍で思いもよらない生活を強いられ、なんとか警察が横行したり、ネットでのバッシングがあったり、今の時代も西行の生きた時代とはまた異なる世の人の心の荒みがあるけれど、そんな中にあって、自らの心と向き合い、虚栄、自尊、嫉妬、世間体からそっと離れて、ありのままを受け止めつつ、視点を変えることで、生き生きとした日常を送っていきたいなと思いを新たにした。




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